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2020年07月

2020.07.31

ロゴスとパトスを包含する「侘び」

 デカルトは、キリスト教教義に反すれば死刑もあり得るというヨーロッパ世界観の中で精神と物体の二元論を説き、それが自然科学の発展に大きく影響したことはよく知られている。では、そのデカルトにとって「侘び」は思惟する我としてどう捉え得るものなのであろうか。彼がやったことは飽くまで事象の分析であって超越ではなかった。論理は常に言辞の枠から超えることは許されず、その結果として分析不能の事柄を切り捨てる。その意味では魂の叫びとしてのパトスも否定されることになり、真偽の領域から除外されることになった。だからこそ大量殺戮や公害などの禍を孕ませながらも、科学が発達する原動力となり得たのである。

 だが、科学は、デカルトがいなくても発達進化したであろうことは容易に想像がつく。デカルトをそこまでの存在と規定すべきではない。科学者たちにも失礼である。所詮は限定されたヨーロッパという価値範疇から抜け出すことなく、しかも言辞の枠の中で、更に限定された意思を用いる方法で、果たして普遍的真理を見出せるのかという疑問が呈されるのである。デカルト的思考では、感情は一切の劣性と見なされ、感覚もロゴスに劣るものと見なされる。

 だが、「侘び」は、そのロゴスとパトスとを包含したものだ。論理は飽くまで言辞をもって成し得、感情もその分析と共に言語化出来るものである。その上で現実に処した人生の選択としての侘びは、一つの哲学的思惟として人類進化の一つの形態として充分に認識仕得るものである。

2020.07.30

デカルト「物心二元論」の真の評価

 「近世哲学の祖」として崇められているデカルト(一五九六~一六五〇)であるが、この物心二元論の祖の思想は、果たして「侘び」観を超えたものであったのだろうか。彼の意識から外されていったものにそれまでの神があった。ヨーロッパ人の思想を支配し教条的に縛りつけていたこの神から巧みに人間を解放したのである。それには人間讃歌を果たしたルネッサンスの後ろ盾があったことは否めない。こうやって彼は、分離された肉体について解体を始めたのであった。そして幾度もの思惟の最後に彼は「我あり」と叫んだのである。

 「コギト・エルゴ・スム」(cogito ergo sum われ思う、故にわれ在り)という彼の有名な言葉があるが、果たしてそれは、ニュートンの万有引力の発見に匹敵仕得るものであったのかということである。どうも哲学界はそう言いたげであるが、そんな事はギリシャ哲学の時代からもインド哲学の時代からも中国哲学の時代からも有った。それを無かったという者は余りに無知なのではないかと言うほかない。

 単に彼は、自分の思考の論理を人前に展開し、「われ思う」という台詞に収斂したに過ぎない。カトリック絶対の中で従来誰も言い得なかった、言うならば神への反逆をやった、そのことに対する高い評価と理解すべきなのではないだろうか。そうでなければ、こんなマヌケなことがこれほどに語り継がれるわけがないのである。

2020.07.29

「侘び然び幽玄」の背後に君臨する空理論

「侘び然び幽玄」という美意識は生に対する哲学でもあり、その背後に君臨する空の論理は西洋哲学を凌いで余りあるものである。その上にこの「侘び然び幽玄」が空の思想的展開として日本人を通して人類に人の存在を解明させてきたことを、自信を持って語るべきであるのだ。

「侘び」の中に自我や自己を止揚し、ニーチェではないが、絶対的原理の下に、自己超越を果たさんとする言葉を越えた強い意識にこそ、この存在の絶対性を見出せるということに我々は気付かなくてはならない。その超越する意識の前には、西洋哲学も上位とはなり得ない事を理解する必要がある。しかし、禅が説くが如き言辞の否定をするものではない。現実の苦難を昇華し、猶(なお)止揚仕得る論理性は常に「侘び」の中に胚胎されていることを茲に述べるのである。

2020.07.28

自然哲学に立脚すべし

 思考判断において人が常に謬りを犯しているのは、利害又は好悪のどちらかに立って論評することである。物事の正しいか否かは、それによっていかに人類が進化し文明が発達し文化が豊かになり人が幸せを実感するか否かによるのである。そこには一切のイデオロギーの入り込む余地はない。にもかかわらず、言論界を支配する左翼陣営は誰が喋っても、運動会で手をつないで一緒にゴールする的なイデオロギーを口にするだけで、不自然性からまったく抜け出せない。それは宗教のドグマから抜けだせない人びととまったく同類なのであって、そこからは他のイデオロギーとの対立しか生まれず、酷い場合は、固有の文化の破壊といった行動を伴ってくる。こうなると、もはやファッショ的要素を含み、ますます容認されることはなくなるのだ。それにしても右系は弱者に目が行かず、左系は伝統や国家観に目が行かないというこの偏狭さはいったいどうして存在するのか、私にはまったくもって理解できない。単に自分が位置しているところからのより大きい利益に反するという意識によるとしか思われない。

2020.07.27

〈考え〉を超越する

 一方の東洋哲学の特徴は〈考え〉を捨て去るところにある。それ故、何かを説明するときには言外の言に重きを置いてきた。すなわち〈直観〉こそが重要視されてきたのである。この東西の価値観の差は著しく、西洋人にとっての東洋哲学の理解は困難を極めている。そういう中にあってキルケゴールの影響を受けて実存哲学を根本に据えたヤスパースは、当時フランスで禅の指導をしていた弟子丸泰仙禅師と親交を深め、言語を超えた世界を直接的に体験している。そのような中から彼は人との「交わり」を「愛しながらの闘い」と表現して重視した。彼などは、多少なり東洋哲学が理解できた人物だと思われるが、弟子丸禅師の評価は決して高くはない。何であれ、西洋人にとって沈黙は苦痛以外の何ものでもない。もっとも中国人の方がもっとそうかも知れないが。果たして現代の中国人に昔の中国哲学が理解されるのか、はなはだ疑問である。それはさて置くとして、かくの如く、言語によらずして西洋哲学の存在はあり得ないのである。

 この点において、インド仏教に代表される東洋哲学も充分に言語を用いたものである。しかし、その言語の先に必ず瞑想(ヨーガ)という必然が存在し、言語に陥ることを厳しく戒めるのである。西洋哲学者たちは、言語の限界を認め、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」と記した。だが、仏教哲学も老子もそのような次元の低いことを認めない。言語は人間が生きる上での便宜的道具にすぎず、言語が世界を規定することなど有り得ない。動物は人間的言語を持たないが、彼らは言語以前の知覚によって世界を広げているのである。聾唖の人たちのことを理解することでも分かるが、彼らは手話なりの言語を学習するまでは言語の世界に生きているわけではない。ならば、彼らにわれわれと同じような世界がなかったのかと言えば、決してそうではないのである。

2020.07.26

言語を嫌う東洋と言語にこだわる西洋

 興味深いことは、東洋哲学は徹底して言語を嫌うのである。西洋の言語学とは根本的に異なる点である。西洋人がことばにこだわるのは聖書(新約=キリスト教典と旧約=ユダヤ教典)を暗記させられたせいかも知れない。またユダヤやギリシャの数字や文字にはそれぞれに特殊な意味が隠されており、そういったことも文言の分析といった学問へと発展したのかも知れない。聖書のはじまりが〈神の発することば〉だったことにも大きく起因しているのかも知れないが、何であれ、聖書からまったく離れてユダヤ人や紀元後のヨーロッパ人の哲学が発展したとは考えにくい。

 この文言に呪縛されているユダヤ人哲学者は、ここから脱することは不可能だろう。日本人のようにいとも容易く「無思考に」自分の信仰や神を捨て去ることなど彼らにはできない〝神業〟であるからである。それにしても、ノーベル賞受賞者の多くがユダヤ人であることからも分かる通り、彼らは極めて優秀である。その根本の要因の一つに聖書があり、彼らをして学問へと向かわしめるのだと思う。

2020.07.25

哲学の根本的命題

 それは、①なぜ自分なのか―。②なぜ存在するのか―。この二つである。

 意識が有るとか無いとかは戯論にすぎず、デカルトが言うように「われ思う」からスタートしないことには何も解決しないのである。

2020.07.24

死さえも融解する感性

 昨日、幽玄とは如何なる心情かについて、次のように書いた。

 映画「最後の忠臣蔵」(杉田成道監督)の最後のシーンで、役所広司演ずる瀬尾孫左衛門(通称、孫左)が大石内蔵助と妾(可留)の子可音(十六歳)を嫁がせ、遂にその命を果たしたとき、主君の位牌を収める仏壇の前で自刃するその時の心情こそが、幽玄の正にそのただ中にあったと言ってよい姿であった。

 今日はその続きを述べたい。

2020.07.23

幽玄とは如何なる心情か

 映画「最後の忠臣蔵」(杉田成道監督)の最後のシーンで、役所広司演ずる瀬尾孫左衛門(通称、孫左)が大石内蔵助と妾(可留)の子可音(十六歳)を嫁がせ、遂にその命を果たしたとき、主君の位牌を収める仏壇の前で自刃するその時の心情こそが、幽玄の正にそのただ中にあったと言ってよい姿であった。

2020.07.22

天晴れ!

 日本の幽玄は飽くまで優美の追求に終始している感がある。その意味では、次に挙げるのはなかなか優美であり、何より命を捨てた城主の覚悟はあっぱれと言う他ない。屈原を遙かに凌ぎ、幽玄の極みと言うことが出来るだろう。この前には観阿弥も世阿弥も全く存在感がない。「天晴れ!天晴れ!」

 一五八二(天正十)年六月、備中国高松城主の清水宗治は、織田信長の命を受けた羽柴秀吉軍の水攻めに合い降伏。秀吉が出した条件を呑み、兵士の命を助けることを条件に死を選んだ。その時、宗治は信長の死を知らないまま、城を囲む秀吉軍の前で水面に船を漕ぎ出し、船上でひとさし舞を舞った後、辞世の句を詠んで優美に切腹した。  宗治の見事な切腹と介錯の作法がそれを見た武士の間で賞賛され、それ以降、武士にとって切腹は名誉ある死という認識が定着していったという。