BLOG

2021年05月

2021.05.30

老子とタオ〈25〉

老子『清浄経』第17章を紹介します。

【第十七章 道 徳 品】
上徳不徳 下徳執徳 執著之者 不明道徳
上徳の人は無心であり拘泥がないから自己の評価というものに何ら頓着しない。他人の反応を気にして生きることがない。下徳は常に物欲に執著し続けるため他の評判を気にし、周囲の顔に左右されてその止まる所を知らない。無為にして初めて道徳を解することが出来、有為にしては道徳の姿を見出すことすら出来ないのである。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.27

老子とタオ〈24〉

老子『清浄経』第16章を紹介します。

【第十六章 消 長 品】

太上老君曰 上士無争 下士好争

老子が曰われるには、上士なる大徳の人は聖人の心を持ち、渾然たる天理に基づいているため全ての現象を包擁し、俗塵に混わりてなお高らず他と争うことがない。しかし下士なる凡人はあらゆることに固執するが故に、その一いちに心が奪われ悪癖を生じて他と争いが絶えることがない。知識や出世に著する者は進んで競争相手を作り自ら争いを好むのである。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.24

老子とタオ〈23〉

老子『清浄経』第15章を紹介します。

【第十五章 聖 道 品】
為化衆生 名為得道 能悟之者 可伝聖道
衆生が修行をなすにその目標なくては定め難きが故に、敢えて得道と名づけ為すのである。しかし、真に行を完成させた者にとっては、得道などという形式が存在するわけではない。形式をもって無極に至ることは不可能であり、真の行者は竟に感じ動じて得道となすのである。この理が真に領せられる者だけが聖なる道を語ることが出来る。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.19

老子とタオ〈22〉

老子『清浄経』第14章を紹介します。

【第十四章 妙 有 品】
雖名得道 実無所得
得道・覚醒と雖も、これ無所得である。しかしまた無尽蔵でもある。何ら心の著する所がない。外象外形に纏(まと)われることなく、仮り世界から心を退いて、己が心奥に果徳を修めることに他ならない。内果が円明となれば、自然(じねん)と欲心は消失し、名利恩愛酒色財気或いは福禄寿の事々に心は奪われない。外に何も無くなれば内に無所得を持し理天に還(かえ)る。

--------------------------------

※無所得 何ものにもとらわれないこと。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.16

老子とタオ〈21〉

老子『清浄経』第13章を紹介します。

【第十三章 真 道 品】
如此清静 漸入真道 既入真道 名為得道
このように清静無為になれれば漸次正しい道に至ることが出来る。すでに真道・正法を得れば名づけて「得道」即ち悟を得るとなす。これ解脱である。真道は凡夫の小知恵や才能でその奥を理解できない。心で領し意で会得して初めて得られるものである。真道は広義的には人身も成し、男精女血の交合により精は鉛、血は汞(こう、水銀)となって男女の別を産む。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.12

老子とタオ〈20〉

老子『清浄経』第12章を紹介します。

【第十二章 真 常 品】
真常応物 真常得性 常応常静 常清静矣
修道の者に在って、涅槃境なる真常(良智)性が物事に会って自在に対処し、その本(もと)常に変わらざれば真の清静を得ている。事に応じて動じ変ずるも、事無ければ静として止(とど)まるを知る。真常とは道なる玄徳の顕われである。常清常静と雖も相対世界の如くに動性を否定するものではなく、形象をもって察し難き綿々たる空なる流れが週(めぐ)っているのである。

--------------------------------

※涅槃(ねはん) 迷いの火を消した状態。ニルヴァーナ。ニルヴァーナに入ること。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.09

老子とタオ〈19〉

老子『清浄経』第11章を紹介します。

【第十一章 虚 空 品】

観空亦空 空無所空 所空既無 無無亦無 無無既無 湛然常寂 寂無所寂 欲豈能生 欲既不生 即是真静

三心(過去現在未来心)を掃き四相(人我衆寿相)が除かれれば、内に心も形も物も存在しない。唯空のみ存在する。戯論・言説・世俗諦の空も言辞認識をもって得んとすれば再びと空じられてその終(とど)まる所がない。将に真空妙有の実相である。寂静も寂静に執われることなき真寂の域に至ればこれが真静である。

----------------------------------------

※戯論(けろん) 形而上学的議論。無益な言論、無意味な話、それごと、たわむれ。

※世俗諦(せぞくたい) 一般的な真理。見定められない宇宙の原理がこの世に形となって現われたありのままの姿。

※真空妙有(しんくうみょうう) 真理ないし真如が一歳の妄想を離れて増すこともなければ減ることもない執着を離れた姿を真空と称し、常住不変であって、しかも現実を成立せしめる真実の有(実存)である点を妙有という。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.05.06

老子とタオ〈18〉

老子『清浄経』第10章を紹介します。

【第十章 虚 無 品】

能遣之者 内観其心 心無其心 外観其形 形無其形 遠観其物 物無其物 三者既悟 唯見於空

 能く三毒を滅すれば、心を内観するに心に執われの心はなく、外に形を観るも形に着する心はない。大宇宙を観るに物質形象もないと悟り得れば唯、空のみを見る。心・形・物に一切執われない状態こそが本性の円明なる姿である。物外を超然として浮俗の仮形に繞われることはない。このように雑念執著を遣除した人だけが空なる真性を観ずることが出来るのである。

---------------------------------------------

※内観 観・観法・正観ともいう。内省によって心の内に真理を観察する仏教一般の修行法。自己そのものを見つめる修行。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)