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2020.07.28

自然哲学に立脚すべし

 思考判断において人が常に謬りを犯しているのは、利害又は好悪のどちらかに立って論評することである。物事の正しいか否かは、それによっていかに人類が進化し文明が発達し文化が豊かになり人が幸せを実感するか否かによるのである。そこには一切のイデオロギーの入り込む余地はない。にもかかわらず、言論界を支配する左翼陣営は誰が喋っても、運動会で手をつないで一緒にゴールする的なイデオロギーを口にするだけで、不自然性からまったく抜け出せない。それは宗教のドグマから抜けだせない人びととまったく同類なのであって、そこからは他のイデオロギーとの対立しか生まれず、酷い場合は、固有の文化の破壊といった行動を伴ってくる。こうなると、もはやファッショ的要素を含み、ますます容認されることはなくなるのだ。それにしても右系は弱者に目が行かず、左系は伝統や国家観に目が行かないというこの偏狭さはいったいどうして存在するのか、私にはまったくもって理解できない。単に自分が位置しているところからのより大きい利益に反するという意識によるとしか思われない。

 だがしかし、われわれが求めるべき真実は、弱者を守り、一流大学を出たから優れた人格であるといった類の誤った価値観を排除し、豊かな人格性を評価すること、国防意識を持った独立した国家観を持ち、伝統という歴史の継続性の上に他者に敬意を払う社会を形成することであるのだが、右に所属する人も左に所属する人も、自分の利益を優先することしか頭にない。社会主義者は権力闘争の実態を隠して弱者救済を唱えるのであるが、もう一つの柱では国の伝統や人びとの祭り心的心情を否定し、日本の場合には中・韓におもねるといった売国奴的偏りを示す。右系の人物らは、国粋主義に陥り優しい心に欠け、何でも自分が一番だと思いたがる。両者ともに無思考であり、哀れである。ともに、道徳心が欠落している。だから社会主義者は道徳を忌み嫌い、国粋主義者は正しく理解できずに曲解の愚に走るのである。

 現代哲学は、そもそも道徳など存在しえないと語っているが、それは謬りである。

(『人生は残酷である』第二章 思考は正しいか 自然哲学に立脚すべし)