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2020.07.29

「侘び然び幽玄」の背後に君臨する空理論

「侘び然び幽玄」という美意識は生に対する哲学でもあり、その背後に君臨する空の論理は西洋哲学を凌いで余りあるものである。その上にこの「侘び然び幽玄」が空の思想的展開として日本人を通して人類に人の存在を解明させてきたことを、自信を持って語るべきであるのだ。

「侘び」の中に自我や自己を止揚し、ニーチェではないが、絶対的原理の下に、自己超越を果たさんとする言葉を越えた強い意識にこそ、この存在の絶対性を見出せるということに我々は気付かなくてはならない。その超越する意識の前には、西洋哲学も上位とはなり得ない事を理解する必要がある。しかし、禅が説くが如き言辞の否定をするものではない。現実の苦難を昇華し、猶(なお)止揚仕得る論理性は常に「侘び」の中に胚胎されていることを茲に述べるのである。

 そこには西洋哲学が持ち続け絶対に逃げることのない「言葉」という世界が存在し、それを以て至上とするヨーロッパ人の限界が現前する。それらは常に所与の世界の中で措定された命題を用いることしかしてこなかった。ある意味、それは当然の帰結ではあるのだが、思惟思弁を超越する意識の存在を肯定させることは彼らにとって難しい作業である。それは、彼らは未だそれをやってこなかったからである。ただそれだけのことである。

 ヨーロッパ哲学は三千年に亘り自己存在について語ってきた。特に神を交えて分析してきた。しかし、ただの一度も言辞を離れて分析しようとしたことはなかったのである。分析は言辞のみの専売特許でないことに彼らは早く気付かねばならない。

 近年ドイツのヤスパースが曹洞宗の弟子丸泰仙(でしまるたいせん)の許で坐禅に励んだことは知られているが、彼らのそれは興味の域を越えることはなかった。ジョブズも(禅を)好んだというが、彼らのはお遊び、ファッションに過ぎなかった。その程度のもので超越は獲得仕得ない。超越がない限りに於いて、「わび」の理解は極めて難解となるのである。この一点を以てして既に西洋哲学は東洋哲学的思惟に敵わないのである。

(『侘び然び幽玄のこころ』第四章 ヨーロッパに於ける「侘び然び幽玄」 デカルト・懐疑法より上位意識としての「侘び」)