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2020.07.24

死さえも融解する感性

 昨日、幽玄とは如何なる心情かについて、次のように書いた。

 映画「最後の忠臣蔵」(杉田成道監督)の最後のシーンで、役所広司演ずる瀬尾孫左衛門(通称、孫左)が大石内蔵助と妾(可留)の子可音(十六歳)を嫁がせ、遂にその命を果たしたとき、主君の位牌を収める仏壇の前で自刃するその時の心情こそが、幽玄の正にそのただ中にあったと言ってよい姿であった。

 今日はその続きを述べたい。

 それは死と同義として現われるのではなく、死を見据えた、死さえも融解していくその感性の中で表現される心情の事であるのだ。その心の眼に遙か彼方にあるからこその幽玄なのであって、決してその視座はこの場所にあるのではない。

 その心情の世界にあっては常態としての幽玄即ちある種の茫洋感に似た、しかし次元を超えた世界に於ける融合こそが、「死へのゆらぎ」としての幽玄なのである。決してそれは死を前提としたものではなく、死と生を超越しているのでもなく、生死が一体のものとして露れ出ずる心情であるのだ。

 しかし、そこには、単に生死の境が不明というに留まらず、ある種の達成感(達観ではない)が支配し、実に不可思議な次元が出現している状態だということが出来るのである。

 常にそこにはある種の憐れを有し、諦めを有した強い自然の力を意味させるのである。これらが一体となって「死へのゆらぎ」を生じさせた時に、幽玄は正に幽玄として、その真の姿を見せるのである。

 それにしても、この映画の名シーンを演じた役所広司も杉田監督も、脚本家の田中陽造も一目置かれるべきである。尤も、筆者の個人的心情としては、切腹の瞬間に友が止めに入り説得して、最後まで可音を裏で支える侘びし人生であって欲しかったのではある。莞爾として監督を仰ぐ次第である。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 幽玄とは如何なる心情か)