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2020.09.22

『タオと宇宙原理』〈29〉第一章 電磁気力の驚異

 あなたが常識と思っていることなど、この事実に比べると実に大したことではないとお分かり頂けたであろう。そういう訳であなたも私も電子の反発力(斥力(せきりょく))で床に立ち椅子に座っていられるのである。ベッドが硬いの柔らかいのと文句を言うのもこの電子の斥力の違いでしかない。握手の感触も実は錯覚で、全ては電磁気力の反発の力でしかなかったのである。ということは、もしこの電磁気力が有されていなかったらどうなるだろう? なんと床を通り抜けてしまうことになるのだ。問題は通り抜けた先であなたの肉体を再構成できるかということである。

2020.09.21

『タオと宇宙原理』〈28〉第一章 電磁気力の驚異

 この原子(アトム)の存在を証明したのは当時二十六歳のアルベルト・アインシュタインであった。彼は水面上の微粒花粉の動きに独特なブラウン運動があることを知ると、その運動はその気体や液体の分子が微粒子の花粉にぶつかるために生じることに気付き数学的解析の結果、そこに一瞬のゆらぎが生じているとして計算し、分子の大きさを割り出したのである。そして遂に原子の大きさをつきとめ、原子が実際に存在することを明らかとしたのである。

 さて、原子は陽子がプラス(+)の電荷を帯びていて電子がマイナス(-)の電荷を帯びているため(+)(-)で引き合って離れない構造になっているのである。四章で説明することになるので詳しくは述べないが、そこでは両者に「電磁気力」という力が働いている。あらゆる物質が原子で出来ている以上、全ての物体にこの「電磁気力(電磁力)」が働いているということになる。因みに核子間には「強い力」と呼ばれる相互作用が働き結合している。

2020.09.20

『タオと宇宙原理』〈27〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

◆電磁気力の驚異

「何故あなたは床に立っていられるのか」と問われたら、読者はどうお答え頂けるだろうか。脚腰がしっかりしてるから立っていられるに決まってるだろ!という返事が飛んできそうだが、実に、これには驚くべき事実がある。

 現代人ならあらゆる物質は原子で出来ていることを知っている。目に見える一切のものも見えない一切のものも、そしてこの筆者もあなたも、原子で出来ている。つまりはランチでてんぷらを食べたのはあなたではなく原子だったということになる。という話の流れになれば、その場所に立っているのは原子ということになる! そう、そこに立っているのは原子の集積であるあなたにすぎない。そのあなたが原子の作用としてそこに立っていられるのである。もし原子の、ある作用が働いていなかったなら、あなたはその地面や床の下を通り抜けてしまう、と言ったら信じてもらえるだろうか。別にオカルト話をしているわけではない。物理学を知る人なら答えは簡単だが知らないと絶対に分からない。

2020.09.19

『タオと宇宙原理』〈26〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

◆老子の逆説

 物理学も宗教も所詮は無知であることを自覚する必要がある。筆者も知っていること以外は何も知らない。何も知らない事がそのほぼ一〇〇%だ。

 東洋最高の哲人の老子は言う。

 衆人は煕煕(き)として楽しく笑い、ごちそうを食べ春の高台で人生を謳歌している。しかし我(われ)独(ひと)り泊兮(はっけい)として身じろぎもせず笑いもせず孩(がい)なる赤子のようだ。ふわふわとしてどこにも帰る所もない。衆人は皆有り余るほど持っているのに、我は独り遺(うしな)えるが如くなにも持っていない。我は愚人の心なり。まさに我は沌沌兮(とんとんけい)としてにぶいものだ。俗人は輝いているのに我独り昏(くら)い。俗人は察察として活発なのに我独り悶悶(もんもん)としている。衆人は皆取り得が有るのに我独り頑(かたく)なで鄙(いなか)者のようだ。なんの取り得もない。だが我は独り他の人と異なるところがある。それは衆人がかえりみない母なる道(タオ)の乳房(ちぶさ)に養われそれを貴(とうと)いとすることである。

2020.09.18

『タオと宇宙原理』〈25〉第一章 日本の知識人の異常性

 特にマスコミ人に代表される日本の知識人のあり方は異常であり、余りに無思考というほかない。変な言い方だが、日本においては「そもそも憲法二十条の思想信条の自由に抵触する!」のだ。にも拘わらず、知識人を自認する人たちは、この憲法を犯しているという無知を自覚することなく、宗教的なる思考を否定するのであるから滑稽である。面白いのは、第二項と第三項は声高に叫ぶのに、第一項は無視することである。

 ではなぜ一項においても国からの特権を受けた特定団体の否定に言及しているのかと言えば、そもそもこの条項がアメリカ軍(GHQ)による国家神道へ対する否定を指していたからである。国家神道を利用して再びと我が国が軍事大国化しないことを明文化したものである。その結果、相対的に個人の信教の自由の権利の文字数が少なくなってしまっただけで、決してこの権利の保障が小さい意味なのではなく、実に重大な権利として憲法で規定されていることを国民は再認識する必要がある。