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2022.03.05

風の時代?

少し前の事件だが、川崎市宮前区で、助手席に乗せたインコに気を取られよそ見運転をした女性ドライバーが、自転車とぶつかり、乗っていた二人を死亡、一人に重傷を負わせた事故があった。
昔からこの手の事故はあるが、最近、非常に増えたと私は思う。これは時代の要請とも言える。

西洋占星術では、2020年12月から「風の時代」に入ったと言われる。これは約200年のスパンで続く時代の流れで、その前は約200年にわたる「土の時代」だった。

土の時代は、お金、物質、地位など、人々が形あるものを求める時代だったのに対して、風の時代は、自由、平等、柔軟性、情報、知性、精神性など、目に見えないものに価値が置かれる時代だと言われる。また、土の時代は縦社会だったのに対し、風の時代は横社会、既存社会の枠組みにしばられず、自由に、正に風のように軽やかに生きていくことが求められていく。

これは、それまでの時代は自分に厳しいことが要求されていたのに対し、楽しいことや、自分の気持ちがゆったりする方向、自由な方向へと気持ちがいってしまうこと、すなわち、責任よりも自分の思いというものの方が優先されていく時代になりかねないことを意味している。

私は一度、家の前の道路を走る車を何十分か見続けたことがある。何とその7、8割が皆、携帯を見ていたのだ。別の時に見た際には、2、3割だったが、実に驚かされたものだ。

自由や平等が重んじられる時代は、良い時代である。しかし、その反面、非常に自分に甘い無責任な時代になりかねない。

こうした事故は、これからも頻発するだろう。この時代を生きる我々は、こうした危険を踏まえて、それを回避する行動を取る必要があるだのろう。

2021.08.26

映画『犬部!』に思う

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篠原哲雄監督の最新作『犬部!』とてもいい映画だった。

公開されてすぐ、篠原哲雄監督の『犬部!』を観た。

片野ゆか著のノンフィクション『北里大学獣医学部 犬部!』を原案とした、動物保護と若者の青春物語だ。


素晴らしかった! 本当にいい映画だった。


初めから終わりまでずっと映画に引き込まれ、最後まで気が散ることなく観ることができた。多くの人に観てもらいたい作品だった。

もう少しテレビ等での宣伝の時間があると良かったというのが正直な感想である。角川的には、あのようなちょっとコメディ調なイメージCM(多分パンフレットの表紙もそうであったと思われるのだが、映画館ではパンフレットを置いていなかったので購入することが出来なかった)でいきたいのだろうが、あのCMは失敗していたと思う。あれでは、コメディというイメージでしか受け止められない。実際の内容は、極めてシビアで重いものだったが、主役たちが楽しげに並んでひょうきんな格好などしているスチールには何とも違和感を感じた。

対象は若い女性たちである。彼女たちにペットを守りたいという意識を与えることが出来れば、客足は増加するはずだ。

知り合いの篠原監督の作品でなければ、このスチール写真で映画を観ることはなかっただろう。あのスチール写真からは、若者たちの軽い青春像は想像出来ても、深刻な命の問題までは想像することは出来なかった。

実際に映画を観始めて、その内容が犬の殺処分問題であることを知り「参ったな」と内心思った。幼少の頃より、動物愛護については、非常に強い意識があったものだから、こういう辛い内容は、観るのが耐えられないという心理からだった。

しかしながら、メイン主役の極めて前向きで意欲的な自己主張、そしてまたそれを理解する優れた指導教官の構図が、この気持ちを払拭させてくれ、その後からは、真剣に観ていった。

殺処分や実験動物の問題というのは、ピタゴラスの禁欲主義や、プラトンが理想国家のあるべき姿として菜食主義であることを提示したことなどを思い出させる。ピタゴラスが創設した教団では、動物を殺すことは殺人に、食肉は食人に等しいと考えた。プラトンは、神は人間の体に栄養を補給するために木と植物と種を創造した、肉食が始まったことで戦争が始まったと語っている。

古くからの大きな課題であったわけだが、このように一人の獣医の熱い思いによって、この世界の状況が僅かながらでも改善されていったことに、改めて喝采を送りたいと思う。

2021.07.04

老子とタオ〈33〉

 以上『清静経』をもって東洋哲学の真髄に触れて頂いた。老子の作というも実際は『老子道徳経』や『易経』を底本とした後世の偽作と思われる。註釈は『宝巻経』として出された「太上老子清静科儀」等からの借用と思われる。周兆昌訳本を私流に手を加えて一般に分かりやすく簡易に紹介したつもりである。

ここで述べていることは、無極或いは太極という全体的根源的存在であり、循環還源の理法である。この理を体得した者が覚者と呼ばれるのだ。この古よりの哲学が現代物理学の理論とも一致している点を改めて理解して頂ければ幸甚である。より直観的に解説したのは物理的哲学的知識ではなく真に体得を望む者にとって、少しでも資助となればと思ってのことである。知識で道を究めんと欲しても、所詮は無理である。究極は体得以外になく、その点を強調しているといえよう。

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【註】この『清静経』が真に老子の作かどうかは疑わしく多分に偽作と思われるのだが、老子の真髄が述べられているという点ではその価値が下がるものではない。明らかに後半の「太上老君日」(第十六章消長品)以後と前半とは違う流れで著わされたものであり、後半部分は宗教的要素を明らかに持たせている。

前半部分においても最後の「可伝聖道」とは、どうも老子らしからぬ表現である。老子が積極的に伝道を促すとはピンとこないところだ。この辺は多分に道教の流れをくむ派によって造られたように思われる。もう一つ文として明らかに流れが飛躍しているところがある。

なんであれ、老子が説くタオの世界は無為の世界である。それは微かにして無限の深さと広がりを持つ概念だ。更には、実存を超克する形で肯定するという現実主義の姿でもある。それは無我なる空を説きながら八十歳まで生きた仏陀の実存とも重なってくる。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.06.29

老子とタオ〈32〉

老子『清浄経』第24章を紹介します。

【第二十四章 超 昇 品】

真常之道 悟者自得 得悟道者 常清静矣

この真常の道、真実にして無極なる本道は自らの力で得る他に術はない。兢兢として己が心を観、常に変わらざる不動の誠心こそが悟の道を見出すのである。深遠幽玄の道理を悟り徹す人だけが永遠に常清常静の域に至るのである。将にこれこそが真の不生不死の態である。修行者よ万事万物のいかなるものをも決して貪り求めてはならないのだ。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)

2021.06.23

老子とタオ〈31〉

老子『清浄経』第23章を紹介します。

【第二十三章 生 死 品】

便遭濁辱 流浪生死 常沉苦海 永失真道

人というのは実に愚かである。せっかくの生であるにも拘わらず、便(たやす)く濁辱に遭(あ)い心奪われて生死輪廻に流浪する。自己中心であるが故に常に苦海に沉(しず)み、永遠に真道を失なうことになる。これ以上の恐ろしき事実は他にない。世の成功を得る者も失なう者も共に汚濁の情に支配され、本来純真無垢の天性を穢(けが)す。得失の得をもってしても、再びと救われることはない。

(『タオと宇宙原理』第七章 老子とタオ)