『侘び然び(わびさび)幽玄のこころ』

平易で美しい表現ながら、奥深い日本の「侘び寂び」の真髄を解き明かした「わび・さび」本の決定版です。
日本人必読の書! 是非お近くの書店などでお求め下さい。

本文より一部をご紹介します。

第一章 侘びわび

侘び わび 」の世界

「しろしかねー」

 筆者が幼い時よりしばしば聞かされた言葉である。「しろしい」の変化した語である。それは、梅雨の時のみに用いられた季節限定の言葉である。筆者が生まれ育った九州は、関東などでは全く思いもしない程の量の雨が降る地域である。ただの普段の雨も関東の人が出遭うと豪雨という驚きになる程に、雨に対する本州の人たちとの感覚の差は埋め難いものがある。経験的には本州の人たちも台風を知っているのだが、毎年当たり前の様にその暴風雨に晒される九州人にとって、それは日常の一コマであり受け入れなければならない「定め」でもあるのだ。その度に川は氾濫し田畑は荒れるのである。

だが、筆者はそんな台風が嫌いではなかった。学校が休みになるからばかりではない。その荒れ狂う大自然の猛威に晒されていることが、何故か心地良かったからである。海は荒れ狂い小さな船を呑み込んでいく。その様な時に船に乗れば、巨大な波の中にすっぽりと船影は隠れ、自分の目線の数メートルも上から、その荒れ狂った波が襲ってくるのである。それは当時の筆者にとって生きているという強い実感が持てる「生かされた精神」の満ちる時であった。幼い時より一度としてそれを怖いと感じたことはなかった。

台風一過と言うが、その時の海辺は砂浜を えぐ り取られ、寒々とした光景へと変わっている。しかしそれも日と共にすぐに元に戻り、また綺麗な浜辺が出現する。何事もなかったかの様にまた平穏な日常が始まるのである。この循環を一つの法則と理解する人としない人の知性の差は大きい。自然を介して輪廻無常を学び取らない人は愚者と呼ばれても仕方がない。

この台風の時に「しろしい」とは誰も口にしない。それは、梅雨の時にのみに用いられる言葉であるのだ。ところが、後に関東に移住した筆者は六月になって驚いたものである。なんと関東には梅雨が無かったからである。有るのは、ただどんよりと曇った日々が続くだけで、しかもたまに降るだけの凡そ雨とは思えない小雨が散見せられただけだったからだ。しかしそれは貧乏学生にとって随分と助かった。下宿の窓の隙間から雨粒に襲われなくて済んだからである。よくよく生活してみると、関東にはほとんど台風らしき台風はやってきたことがなく、梅雨もなく、これでは大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性は、獲得仕得ないと感じたものである。

この台風の時に「しろしい」とは誰も口にしない。それは、梅雨の時にのみに用いられる言葉であるのだ。ところが、後に関東に移住した筆者は六月になって驚いたものである。なんと関東には梅雨が無かったからである。有るのは、ただどんよりと曇った日々が続くだけで、しかもたまに降るだけの凡そ雨とは思えない小雨が散見せられただけだったからだ。しかしそれは貧乏学生にとって随分と助かった。下宿の窓の隙間から雨粒に襲われなくて済んだからである。よくよく生活してみると、関東にはほとんど台風らしき台風はやってきたことがなく、梅雨もなく、これでは大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性は、獲得仕得ないと感じたものである。・・・・・(続く)

第二章 幽玄ゆうげん

陰陽の幽玄

「幽玄」というと日本の解説書では第一に能が出てきて世阿弥の思想などが紹介されるのであるが、果たして能の幽玄は真に幽玄なのだろうか。あの独特の節回しは文句なく合格と言えるだろう。能楽も正にピッタリである。しかしそれでも『風姿花伝』や『 花鏡 かきょう 』に幽玄という文字はあっても、真なる幽玄が有るとは筆者には思えない。不充分だと敢えて申し述べたい。否、そもそも世阿弥は幽玄など語っていないのかも知れない。能の幽玄は拙著が説く大地の幽玄や中国に源を置く幽玄とは根本的に違うのかも知れない。単なる芸能の産物なのかも知れない。もしそうだとしたならば、拙著は古来より伝わり、また大地に根付いた所の幽玄について述べることになる。

ただ一つだけ言えるのは、世界の知識人が魅了される能という芸能は世界的に稀な形態を持つものであり、西洋人にとってはとてもエキゾチックな魅力に満ちているということである。この一点を以てしても日本独特であり、他の追随を許さないと映るのであるが、この点については大いに注意を要するのである。何故なら幽玄なる世界は西洋にも古くから存在するからである。ただ、日本ほど洗練されていないに過ぎない。

「幽玄」は 黄泉 よみ を背景とした思いに基づくものであって、それは必ずしも美意識ではない。飽くまでそれは、その状態を指す言葉なのであって、思想や哲学や心情とは全く関係ない代物であるのだ。その限りに於いて、幽玄は常に神秘的である。だが、この幽玄を語る者がもし無神論者ならば、凡そ滑稽としか言い様がない。無神論者には幽玄のゆの字も分かり得ようがないからである。何故なら「幽玄」は常に現世と来世との境を示す次元であるからだ。もし風景としての幽玄にその無神論者が感動していても、それは幽玄に対するものではなく、単なる造形や色彩に対してであることを峻別しておかなくてはならない。

筆者にとっての幽玄は、生まれながらに到る所に在った。それは住んでいる茅葺きの家そのものが正にそうだったからである。街灯などという気の利いたものがない時代、村自体が幽玄や侘び世界の一部でしかなかった。いまでも各地のど田舎へ行けばそんなところは到る所にあるものだ。夜になれば村全体が真っ暗になった。星は都会の何倍も輝いて見えた。家の土間にもそのうえの屋根裏部屋にも藁が積み上げられていた。その屋根裏はいつも薄暗く、 梯子 はしご で一人上っていくことには抵抗があった。祖父母の部屋も薄暗い中に古めかしい箪笥が並んでいて、一度も可愛がってくれなかった怖い祖母が居て足を一歩も入れることが出来なかった。一方、大好きだった祖父とは火鉢でおにぎりを焼き、如何にも平和裡な空間の中にいた瞬間も幽玄の一時であり、また侘びの世界でもあった。

更に、厨房の窓からの木洩れ陽ならぬ格子洩れ陽、小春日和には一層の輝きを増して よう 性としての幽玄を見せてくれたものである。古めかしいこの家はどこにいても黄泉の世界へと繋がっていた。何もかもが、不思議の国のアリスではないが、異次元へと導いてくれる趣があった。古き生活を送っていた人々には全員に、この感覚が多少の違いはあるにせよ有されていたことは否定仕様のない事実だと思う。幽玄は常に心の不確かさがそこに見てとれるのである。ただ元気いっぱいで鈍感な人では、もしかすると把握出来ないのかも知れないが、凡そ、昔の人ならば大方がこの感覚は共有していたであろうと思う。

ところが明治以降に西洋合理主義が導入され、迷信の類を徹底的に排除していく中で、幽玄の いん の部分が否定されていき、後には陽の部分である美としての幽玄のみが強調されていったのである。その幽玄は「侘び然び」との共通項も持つところから、「わび・さび・幽玄」と 一括 ひとくく りで言われる様になっていくのだが、幽玄は他二者に比べると圧倒的に異次元である。

それは、何度も言う様だが、常に黄泉との表裏一体の姿でしかそれは認識されないものであったからだ。黄泉とは幽玄に於ける陰の部分である。陰は常に人の心に影を作り出して存在する。それは表の陽を支える相補的関係でもあるのだ。・・・・(続く)

第三章 「わびさび」の語源

侘び わび 」について

「わび」については、五章以降にも語っているのであるが、古くは奈良時代(710~784)末期に皇族・貴族・官人を中心に編纂された『万葉集』に既に記されており、「和備」「和夫」「惑」といった字が当てられている。その意味するところは、中世平安以降の美意識とは違い、より素朴なものである。即ち、侘しい、思い煩う、気落ちする、孤独感、疎外感といった内容で、閑寂といった趣は出てきていない。飽くまでそれは侘しいに収斂されるものであった。

『万葉集』巻十五
「たちかへり泣けども あれ はしるし無み思ひわぶれて しそ多き」
多知可敝里 たちかへり   奈氣杼毛安礼波 なけどもあれは   之流思奈美 しるしなみ   於毛比和夫礼弖 おもひわぶれて   奴流欲之曽於保伎 ぬるよしぞおほき )」

この様に、その多くは恋愛もので、逢えなくなって淋しい、辛いといった実に下らない内容で占められている。そういう中にあって、季節の情景を歌うものがあり、そこに侘びが出始める。

『古今和歌集』(九〇五頃)巻第十八
「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ」

私を訊ねる人がいたら須磨の浦で涙を流して侘しく暮らしていると伝えてほしいという内容である。この辺りになると、『万葉集』の頃よりもより中世以降の侘びの意味合いへと近付いているのが分かるが、それでもまだ、惨めったらしさが存在する。未だ美には全く到っていない。

しかし、和歌の世界に於いて、それらが用いられ続けることで、より洗練された意識が誕生する様になり、中世以降、自己の克服を意味する所の「侘び」が醸成されていくことになる。日本に於ける思想的根源という意味では吉田兼好(一二八三頃~一三五二頃)の『徒然草』も無視することは出来ない。

第七十五段
「つれづれわぶる人は、いかなる心ならむ。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこそよけれ」 とあって、風流なる孤独を詠む様になる。既にこの時には「侘び」の基礎は出来上がっていると言っていいのかも知れない。

つまり、「わび」にしても「さび」にしても当初は否定的な意味合いでしか用いられていなかったもので、それがだんだんと時代を下ることで、肯定的に捉えられる様になり、枯淡の趣という美意識が誕生してくる様になるのである。しかし、これらの従来の説は飽くまで和歌や茶を通してのことであって、拙著が ここ で語らんとしているのは、それ以外の歴史に記載されてこなかった庶民の 就中 なかんづく 、百姓の美意識のことである。

何故なら、都人の日常や感覚というものは、極めて特殊なケースであって、決して一般論として語り得ないからである。一般論となり得ていないものを指して日本人の精神などと大見得を切るわけにはいかないのである。それ故に、本物の「侘び然び幽玄」を追究しなくてはならないのである。

字義語源

『大日本百科全書(ニッポニカ)』「わび」の項に於いて熊倉功夫は、貧粗・不足のなかに心の充足を見出そうとする意識と言い、『万葉集』に「わびし」「わぶ」という語がみえるが、いずれも恋が実らないで苦しむ状態を示し、けっして美意識といった価値を表現することばではなかった、と述べている。また、平安時代の和歌でも「恨みわび」というように恋の用例も多いが、その一方で、不遇の身をかこつ失意の心境を語る表現としても現われることを指摘している。そこから、風雅を感ずる心が生まれ、これに秋冬の季節感も加わって枯淡、脱俗の美意識としてのわびが登場する、と分析している。更にそれは、室町時代後期の町衆文化である茶の湯と結び付いて急速に発達し、十六世紀前半にわび茶を発展させた 武野紹鴎 たけのじょうおう によれば、「わび」とは「正直におごらぬさま」と一つの指針を示している。そして、わび茶は単なる貧粗・無一物の世界ではなく、一方に贅沢で見事な器物に囲まれており、その名物をそのまま見せるのではなく、粗末なものと対照させることによって名物のより深い美を引き出し、また一方で粗相の美を提示したと説明する。

この様に熊倉が言う経緯で推移してきたわけであるが、ここに言う粗( )相の美については利休は嫌っていたといわれている。それは、利休の茶が冴えない侘びよりもセンスを追求する然びの方に心が向いていたからに他ならない。飽くまで侘びは然びの脇役であったに違いない。脇に立った時により一層侘びは え抜きて、それによって更に然びが際立ったのではないかと察するのである。

江戸に於いて利休の茶を「わび茶」と呼称する様になるのだが、実は利休が追求したのは侘びを演出として用いた「然び茶」であったと言うべきである。

では茲で、一度、いくつかの大国語辞典に於ける記述を紹介する。(読者の便を図る為、一部筆者により旧字ではなく新字による表記や、改行や傍点などが加えられている)

■日本国語大辞典

◆わび 【侘・詫】
解説・用例〔名〕
(動詞「わびる(侘)」の連用形の名詞化)
(1)わびしく思うこと。思いわずらうこと。気落ちすること。
*万葉集〔8C後〕四・六四四
「今は吾は 和備 ワビ そしにける いき の緒に思ひし君を許さく思へば〈紀女郎〉」
(2)閑居を楽しむこと。また、その所。
*浄瑠璃・曾我扇八景〔1711頃〕紋尽し
「檜の木作りも気づまりさに、わびのふせ屋の物ずき」
(3)茶道・俳諧などでいう閑寂な風趣。簡素の中にある落ち着いたさびしい感じ。
*咄本・醒睡笑〔1628〕八
「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや 利久はわびの本意とて、此の歌を常に吟じ」
(4)(詫)あやまること。謝罪すること。また、そのことば。
*浄瑠璃・信州川中島合戦〔1721〕三「おわびおわびと心を揉む」

◆わ・びる 【侘・詫】 わぶ
解説・用例〔自バ上一〕
文語 わ・ぶ〔自バ上二〕
(1)気力を失って、がっくりする。気落ちする。
*万葉集〔8C後〕四・七五〇
「思ひ絶え 和備 ワビ にしものをなかなかに何か苦しく相見そめけむ〈大伴家持〉」
(2)困惑の気持を外に表わす。迷惑がる。また、あれこれと思いわずらう。
*蜻蛉日記〔974頃〕下・天延二年
「いとわりなき雨にさはりて、わび侍り」
(3)思うようにならないでうらめしく思う。つらがって嘆く。また、心細く思う。
*徒然草〔1331頃〕七五
「つれづれわぶる人はいかなる心ならん」
(4)おちぶれた生活を送る。みすぼらしいさまになる。
*俳諧・犬子集〔1633〕九・秋
「わひたる人の袖の秋風月がたのやぶれ衣にあらはれて〈宗及〉」
(5)世俗から遠ざかって、とぼしい中で閑静な暮らしに親しむ。閑寂を楽しむ。
*謡曲・松風〔1423頃〕
「ことさらこの須磨の浦に心あらん人は、わざとも侘びてこそ住むべけれ」
(6)困りぬいて頼み込む。困って嘆願する。
*御伽草子・福富長者物語〔室町末〕
「近き程に一度振り出して、先つかうまつり侍るべしと、しきりにわぶる」
(7)(詫)困惑した様子をして過失などの許しを求める。他動詞的にも用いる。あやまる。
*今鏡〔1170〕六・雁がね
「わび申す由聞かせ参らせよと宣ひければ」
(8)(他の動詞の連用形に付いて)その動作や行為をなかなかしきれないで困るの意を表わす。…しあぐむ。
*古今和歌集〔905~914〕夏・一五二
「やよやまて山郭公ことづてんわれ世中にすみわびぬとよ〈三国町〉」

◆わぶ・る 【侘】
解説・用例〔自ラ下二〕
「わびる(侘)」に同じ。
*万葉集〔8C後〕一五・三七五九
「たちかへり泣けどもあれはしるし無み思ひ 和夫礼 ワブレ て寝る夜しそ多き〈中臣宅守〉」

この「日本国語大辞典」も簡潔によくまとめられていて分かりやすい。これらの内容を比較して読んで頂けると分かるが、「わび」は「わぶ」が名詞化したもので、陰性の美となるまでは極めて悲劇的な概念であった。その進化の過程に於いて日本人がよくそのメンタリティを高めたのには、仏教就中(なかんづく)禅の影響が大きかったのである。

「然(さ)び」について

神(かむ)さび おきな さび 少女 をとめ さび

辞典の解説でも分かる様に「侘び」との差は最早ない状態にある。しかし、「侘び」はその状態のままを指しているのに対し、「然び」はその中から滲み出てくる美を追求していると言えるだろう。更には、そのものが持つ所謂「センスの良さ」というものが追求されていっているのだと言える。そういう意味では、侘びとセットになっていなければ、然びはどんどん華美になっていった可能性を有しているのである。

かむ 」「 おきな さび」「 少女 をとめ さび」は「 神然 ぜん 」「 翁然 ぜん )」「 少女然 ぜん 」となり、いまも使い慣れた言葉となる。「神さび」は神様らしい神々しい様をいう。「翁さび」は老人らしくいかにも老人然としている様をいい、「少女さび」は正に少女の魅力が満開なるをいうのである。「然び」は、その内なる魅力が表に全面に出てきている状態である。この点からしても隠そうとする「侘び」意識からは真逆とも思える所があるのである。

しかしだからこそ、「わびさび」はワンワードとして生きているのだと思う。そのどちらが欠けても成立しなくなるのだ。有名な利休の演出に、庭を掃いた後に紅葉の枝を軽く揺すって、パラパラと数枚の葉を落としたという逸話がある。「然び」とは正にあの仕草のことであるのだ。その意味では「芭蕉のさび」とはまた違うさびが利休には有るのだと理解すべきである。

利休は正に現代に通じるセンスを後世に伝えたのだと言えるだろう。徹底した美的センスに拘り、「侘び」を手掛かりとして、そこにキラリと光るもう一つの美を表現した美の開拓者であった。

さびは当初は「佐備」「左備」「佐夫」などが用いられ、「神佐夫」や「神佐備」といった用い方をされている。基本、動詞形で用いられていたものである。

字義語源

『大日本百科全書(ニッポニカ)』「さび」の項に於いて堀越善太郎は、美的理念で閑寂のなかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう、といい、単なる「さびしさ」や「古さ」ではなく、さびしく静かなものが、いっそう静まり、古くなったものが、さらに枯れ、そのなかに、かすかで奥深いもの、豊かで広がりのあるもの、あるいはまた華麗なものが現われてくる、そうした深い情趣を含んだ閑寂枯淡の美が「さび」であるといい、老いて枯れたものと、豊かで華麗なものは、相反する要素であるが、それらが一つの世界のなかで互いに引き合い、作用しあってその世界を活性化する。「さび」はそのように活性化されて、動いてやまない心の働きから生ずる、二重構造体の美とも把握しうると説明している。つまりは侘びとの一体性というわけである。更には、芭蕉 俳諧 はいかい において「さび」は、「しほり」「ほそみ」とともに重視され、以来、それは美的理念として、日本人の一般的な生活感情の領域にまで影響を与え、今日に至っているというが、果たしてどこまで生活感情に入り込んでいるのか多少の疑問ではある。少なくとも一般大衆はそこまで芭蕉のことを知る者は少ない。

次に「然び」についても「侘び」と同様の辞典から紹介する。そのどれもが「侘び」と違いより美的なイメージを以て解説していることが分かる。この点こそが侘びと然びの明瞭な違いなのである。しかもその当て字は「寂」よりも「然」の方が意味合いからして妥当だと言えるのではないだろうか。

■日本国語大辞典

◆さびし・い 【寂・淋】
解説・用例〔形口〕さびし〔形シク〕
(1)本来あるべき状態になく、また、本来備わっているはずのものが欠けていて、満たされない気持を表わす。物足りない。不満足、不景気、憂鬱、物悲しさなどを表わす。さぶし。さみしい。
上代では(1)の心情を表わすのに「さぶし」の形が用いられている。
*宇津保物語〔970~999頃〕楼上下
「帰りてのち、家のさびしきをながめて、時につけつつつくりあつめ給へる詩をずんじ給へる」
(2)人の気配がなく心細い。ひっそりしている。静かで心細いほどである。また、人が住まずに荒れている。さみしい。
*阿波国文庫旧蔵本伊勢物語〔10C前〕五八
「むぐらおひ荒たる宿のさびしきは、かりにもおきのすだくなりけり」
(3)「さみしい(寂)(3)」に同じ。見ていてあさましい感じである。さびしい。さもしい。
*人情本・人情廓の鶯〔1830~44〕後・上
「エエ見さげ果(はて)たる淋(サミ)しい根情」

◆さぶし 【寂・淋】
解説・用例〔形シク〕
本来あるべき状態になく、また、本来備わっているはずのものが欠けていて、気持が満たされない。さびしい。
*万葉集〔8C後〕四・四八六
「山の にあぢ むら 騒き行くなれどわれは 左夫思 サブシ ゑ君にしあらねば〈斉明天皇〉」
補注 平安以後は「さびし」の形で用いられる。

侘びは侘びしく、寂びは寂しい意味合いが多いが、本来の殺風景な趣や内から滲み出る意味合いはやはり「然び」こそが「さび」に似つかわしい。

第四章 ヨーロッパに於ける「幽玄ゆうげん

「陽性の び」との出会い

筆者は若い時に世界中を歩いてまわった経験がある。その全てが日本と違う国であった。日本だった(植民地ではない)台湾や朝鮮や南太平洋の人たちだって全く違う国であった。中国も然り。世界中どこに行っても日本人と全く同じ精神を共有している国など存在しなかった。当然のことである。その中にあって、日本人の気質と似ていると思った民族がいくつかある。

恥ずかしがりというのは、アジア人や未開地の女性や子どもには割とよく見られる傾向ではあった。そういった中で、恰も日本人の様だと感じたのは、ネパール人やブータン人、田舎の中国人、アメリカ南部の白人たち、チベット人の人の良さ、ユダヤ人の決まりをよく守る所、ドイツ人の生真面目さ、博多っ子とナポリっ子。その時の印象で、いまもそうかは厳密には分からないが、意外な所が似ていたりして驚いたものだった。

全く以て似ていないのは中南米人、アメリカ人、イギリス人、スペイン人、インド人、煩い中国人、高飛車なフランス人、相手を責めまくる韓国人、アフリカ人、身長180センチの女性がいる国々。

では、何が共通しているだろうか。実は、どの人種だろうが国民だろうが価値観の基本は皆同じなのである。愛が多い人は好かれ少ない人は疎まれる。他を責める人は嫌われ助ける人は好かれる。科学者や一芸に秀でた者は尊敬され、花がある者は人気者となる。特に先進国の中ではタフで自己を抑制出来る人物は尊敬される。皆、恋愛と食事と音楽とサッカーが好きだ。

そんな中、日本人だけが他と圧倒して違うことがある。他から見ると圧倒的に劣っていることがある。それは、自己主張しないことである。この一点に於いて、日本人は他の全ての人種を圧倒している。その意識こそ「侘び」だったのである。しかもそれが弱点として作用している姿であったのだ。

一方、ヨーロッパ人の中の「侘び」はもっと乾燥している。日本人の様にジトッとしていない。彼らの陰性は日本人同様に実は自己否定を持ち合わせている。その様な者は、より思索的で静かである。しかし、どんなにそうだったとしても、自分に利害が生じた時には激しく戦うことを避けることはない。もしかすると、この「ヨーロッパ型の侘び」の方が「実践的侘び」として正しく機能しているのではないかと思う程である。・・・(続く)

第五章 「び」「び」の再定義

世界の「び」「び」へ

び」は更年期を過ぎてから語れ

日本人の大半は、「侘び」「然び」の違いも分からないままに、無節操に、「わびだ」「さびだ」とすぐに口にしたがる人が多いのだが、果たして「侘び」とは「然び」とは何であるのかをこれから語っていきたい。少なくとも従来語られてきた「わびさび」だけではないことを茲に述べたい。

一般に、「外人には日本独特の〝わびさび〟の心は分からない」とよく言う。しかしながら、言うところの〝わびさびの心〟とは果たして何であるのか、自身に一度問う必要がある。実は、日本人が言う程度の心は、強弱の違いはあれ、白人にも黒人にも2015年に於いて未だ無礼な韓国人にすら有るものなのである。高々その程度のものを指して「わび」「さび」と言われると、外国人は鼻先で わら い出すだろう。

筆者の心情としては「侘び」「然び」が分からないで、果たして日本人と言えるのか、という思いがある。その一番の元凶は学者が明瞭に語ってこなかったことにある。特に気になったのは「侘び然び」が分かるはずもない若い研究者が尤もらしく饒舌に語っている研究書が出回っていることだ。数年前、一番信頼感がありそうで購入してみると、その内容に愕然としたものだった。せめて「侘び然び」は若さを失う更年期以降、五十歳を過ぎてから語ってもらいたいものだ。何故ならそれまでには理解されない心情であるからだ。理解出来るとしたならば、それは稀なる天才か水呑百姓だけである。一介の研究者に出来ることではない。可能性があるのは日々死を目の前にしている特殊な境遇の若者だけだ。その人物は可能かも知れない。しかしその人物が色に負けているならば、それは有り得ない。況してや机上で弄ぶ論題ではないのである。

単にいつ頃その思想が出始めたのか―という一事をとってみても、その思想そのものを自分のものと出来ていない者に、理解出来るはずもなく、何故ただ混乱を招く為だけの無用の長物を世に出すのか、その責任を はか ってもらいたいのである。筆者が如きフリーの作家なら許されても、権威を有する学者には許されない事であるのだ。この情況が今後も続くと、「侘び然び」の世界は益々混乱を極め、遂には欧米の研究者や中国韓国の研究者の後塵を拝するに到るだろう。だからこそ、ここでしっかりとした思想を再構築しなくてはならないのである。

ともあれ、世界中で「侘び」「然び」を精神の支柱にしている民族は極めて少ないであろうと思う。既に四章で語ってきた様に、西洋にも紛れもない「侘び然び幽玄」が存在した。それは、日本のそれと比較してより厳格な形で表出した。それは宗教という形であり、そこからのドグマであり、また建築という世界に於いて古びた、それでいて重厚な「然び」が輝いていたことを学んできた。

その建築美は、然びの最たるものとして、由緒有るカテドラルを挙げないわけにはいかない。そこには荘厳というよりも 静謐 せいひつ に近い感覚がある。大きな大理石の冷たさも然りだ。大きな石段を上り始めた時から、そして中に入るその瞬間の威圧感と寛容さとがマッチして、中へと導いてくれるのである。それは狭い茶室は比肩出来ないが、東大寺の大仏殿なら比肩するであろう。共に 巍々 ぎぎ たる趣が有り、威厳に満ちている。

「然び」にはこの威厳が内在する。「侘び」には精神の超越が存在し、一切のものをそのままの姿で受け容れるのである。それは、美としての侘びと言うよりは精神としての侘びであるのだ。日本人はそうやって現代に到るまで侘びをその懐に抱いて戦国時代を生き抜き維新を生き抜き、世界大戦を生き抜いてきたのだ。それは、西洋の歴史とも一部通じるものがあるかも知れない。しかしながら、それとはやはり全く違う世界が、日本の「侘び」「然び」には有るのである。

西洋人の「侘び」には常に戦いの臭いがしてくる。「然び」には神への挑戦の臭いがしてくるのである。それに比してわが国のそれは極めて内向的で、常に自分との戦いの場に在る。言うならばそれは「平和主義」の「侘び」なのである。好戦的でないのである。それ故、日本人は敵を許すことが出来た。西洋人から見ると理解不能の敵に対する許容を示してきた。その結果、中国人や韓国人に余りに侮辱される結果になっても相手を許した。日本の侘びには愛が内在していたからである。それ故に世界に冠たる侘びを築けるのである。

だがしかし、それは同時に、世界からの誤解と侮辱を受ける結果になるという脆弱性をも有していた。「侘び」は「詫び」として機能しているだけで、最も重大な誇りを日本人から奪い去った。果たして、それを指して日本人の心と呼べるだろうか。果たしてそれは「侘び然び」の心なのだろうか。思想たる美学は生きていなくてはならない。だが、現在の「侘び然び」は生きた者の力とはなり得ていないのではないだろうか。

続きは是非、本でお読みください。より深遠で興味深い内容に、今までの「わびさび」観が飛躍することをお約束します。