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2020年10月

2020.10.08

『タオと宇宙原理』〈45〉第一章 刹那生滅

 さて、この未来相には、未来に閉じ込められて現在相に顕われないものもある。それらは因縁が未だ成就しないものである。また、涅槃に関わるものは作用しない法として未来相内に定住するものとなる。それが顕われるのは、人が解脱した時である。

 刹那生滅とは存在に実体が無いことを意味している。以前、白金か何かの分子の生映像を見たことがあるが、それは部分部分が生滅していて、アメーバの様にふにゃふにゃと動き回っているかの様にも見えた。今でいう仮想フィールドである。その形を留めることがなく、個体とはまったく認識できないものであった。将にその様に我々の体もこの世界の全てが生じては消え、消えては生じるの変化を繰り返しながら存在しているのである。それは、第四章で述べている物理の法則と一致することが、現代において証明されている。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 刹那生滅)

2020.10.07

『タオと宇宙原理』〈44〉第一章 刹那生滅

 相対性理論と同様に仏教の有部は、未来と現在と過去を等価と見るのである。

 そこには、未来から過去あるいは過去から未来に向かった連続する時間の矢が見出されることになる。しかも、それらが等価の関わりということになれば、未来が現在に影響し、現在が過去に影響することが論理的に導かれることになる。通常は、過去の因が現在に果を生じさせ、現在の因が未来に果を生じさせるということになるのだが、三世が実有であるならば、それは相互依存の関係となり逆の因果関係も有り得ることになるのである。この事は、アインシュタインの相対性理論の中で語られていることでもある。仏教と最先端物理学の一致とは何とも驚くばかりである。

2020.10.06

『タオと宇宙原理』〈43〉第一章 刹那生滅

 少しだけ解説をすると以下のようになる。仏教では、この世の原理法則のことを有為法(ういほう)という。つまり、迷いの世界を支配している原理ということになり、それらには全て無常の性質が有される。無常とは常住でないということであり、ここに述べる刹那生滅を意味することになる。

2020.10.05

『タオと宇宙原理』〈42〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

◆刹那生滅

 仏教の唯識(ゆいしき)派(正しくは瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派)は名前の通り、唯(ただ)識のみが有ると説く。すなわち、この世界の事象は全て心が作り出した仮の姿であって実在せず、実在するのはただ心だけだとするものである。この世は存在していないと説くのである。ただし、これは西洋の唯心論と違い、唯識の識は最終的には空(くう)じられてその存在が否定される。ここが仏教の凄いところであり、一般に理解するのが甚だ難しい所でもある。瑜伽とは、いわゆるヨーガの本来的意味である。解脱を追求するという意味において巷で行なわれているものとは根本的に異質である。この唯識派は存在を「今現在」しか認めず、過去も未来も認めない。

2020.10.04

『タオと宇宙原理』〈41〉第一章 「空」―絶対性の否定

 その意味で、人がニルヴァーナを理解することは、解脱の前段階の境に至らない限り不可能である。

 その為には、自己のあらゆる執著(しゅうぢゃく) を捨て去らねばならない。完全に近い無執著の境地へと至った時に初めてニルヴァーナが感知できるようになるのだ。いくら科学者が頭脳活動をもってしてもこの世界だけは把握できない。原始宇宙、プラズマが光の直進を妨げたように、科学者の執著心なる煩悩が、意識をそれ以上の境地へと行かせないからである。最高の修行者でニルヴァーナをもし感じ取れる境地に近付いたとしても、そこに一縷(いちる)の概念なりが付随している限りにおいて空(くう)じられる対象となり、相対化され否定されるのである。

2020.10.03

『タオと宇宙原理』〈40〉第一章 「空」―絶対性の否定

 空(くう)は「この世界」における究極の法(ダルマ)(原理)である。

 その意味で、仏教が説く救いの境地「涅槃(ニルヴァーナ)」は、他宗教と比べ圧倒的に奇妙な概念である。ほとんどの宗教が説くところの天国を意味していないからである。浄土宗などで説かれる浄土や極楽の概念は、明らかに無知な信者向けに語られたものであって、仏陀が説いたニルヴァーナはそのようなものではない。それは非存在なるものであるのだ。それは一切の概念を受け付けない〝不可解な概念〟〝不可解な場〟なのである。それは後章で語る「無」に於けるエネルギーや「ゆらぎ」と関係していると筆者は解している。

2020.10.02

『タオと宇宙原理』〈39〉第一章 「空」―絶対性の否定

 相対も自他のそれぞれに自性を認めることなので否定されるのである。自己の絶対性の謬(あやま)りと同時に他者の絶対性も同様に、それ以外を否定することになるので謬りとなり成り立たない。その意味ではキリスト教的神も存在しない。何故ならキリスト教の神は常に人間やサタンを相対的存在として位置付けるからである。もし絶対という概念で神を捉えようとするならば、この宇宙の一切を神としなくてはならない。すなわち、人もサタンも神の一部分であるという概念を形成させる必要がある。それは東洋における汎神論と一致する。その時には人格神的神の存在は否定されることになる。

2020.10.01

『タオと宇宙原理』〈38〉第一章 「空」―絶対性の否定

 では、「それ」だけが唯一この世界に存在するならば絶対なのか、その通りである。では、そのようなものはこの世に存在するかと問えば、考える要もなく存在しない。この世は相対的世界だからである。だが、この言葉は本当だろうか? 相対世界なるものは本当に存在するのだろうか。

 相対とは「私」と「彼」との存在関係を指すものである。一般に「彼」と「私」は相対的に存在していると言う。だが実はこの表現は論理学的には誤りであるのだ。相対なる世界などあり得ないからである。すなわち、相対とは「彼」と「私」とに存在という絶対性を付与した概念だからである。そう言われれば読者もお分かり頂けただろうが、つまり、相対という概念は絶対なる複数の存在を指すことであり、そこには明らかな矛盾が生じることになるのだ。