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2020.10.05

『タオと宇宙原理』〈42〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

◆刹那生滅

 仏教の唯識(ゆいしき)派(正しくは瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派)は名前の通り、唯(ただ)識のみが有ると説く。すなわち、この世界の事象は全て心が作り出した仮の姿であって実在せず、実在するのはただ心だけだとするものである。この世は存在していないと説くのである。ただし、これは西洋の唯心論と違い、唯識の識は最終的には空(くう)じられてその存在が否定される。ここが仏教の凄いところであり、一般に理解するのが甚だ難しい所でもある。瑜伽とは、いわゆるヨーガの本来的意味である。解脱を追求するという意味において巷で行なわれているものとは根本的に異質である。この唯識派は存在を「今現在」しか認めず、過去も未来も認めない。

 一方、仏教部派の最大勢力であった説一切有部(せついっさいうぶ)という学派は、過去現在未来の三世(さんぜ)の法(法則原理)の実有を説いた点で唯識派と異なるが、共に、時間と存在について「刹那生滅(せつなしょうめつ)している」(正しくは「刹那滅」と呼称)と主張する。「今」という一刹那一刹那ごとに生じては滅し、滅しては生ずる、の繰り返しの中で、我々は自分の存在を認識しているというのである。こうして常住不変の存在を一切認めることがないのである。実に仏教は徹底している。物理学以上に物理学的である。因みに、刹那とは時間の単位で無限に短い時間の概念であるが、指をピンと弾く(一指弾)間が六十五刹那とも言われている。大雑把に言えば仮に一指弾を百分の一秒とすると、更にその六十五分の一秒ぐらいの瞬間ということになる。この一刹那ごとに生滅を繰り返して我々は存在しているというのである。何が生滅しているのかとなるが、この存在そのものであり、また時間であり、人を構成する五蘊(ごうん) の要素そのもののことでもある。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 刹那生滅)