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2020.07.19

幽玄は魂の叫び

 世界で語り継がれる日本映画の『雨月物語』や『耳なし芳一』などの映像に残された幽玄観は、常に儚く、黄泉との繋がりのみに依存してそこから抜け出すことがなかった。その映像も描写も欧米に於いてはエキゾチックと映り、大いに高い評価を受けてきた。それだけに、幽玄は、ただ死霊との関わりを美しく描くことだと勘違いさせられた人は多い。だが違うのである。幽玄はその様な浅い境地ではないのだ。この結果を導き出したのは、その全てが能にあると思われる。それは正にエキゾティズムそのもので、その観念の定着は、千年の時を経て常識となり、日本人の精神へとなり得たということだろう。

 だが、筆者はその事を肯んじない。幽玄はエキゾティズムに非ず。それは魂の叫びなのだ。ムンクの叫びよろしく、人間に生きる魂の、煩悩との葛藤から生まれてくる救いへの枯渇に他ならない。ひと時の安心を求める魂の迷える姿でもある。しかしそれは、その前提として、悪事を為すことなく必死の思いで生き抜いてきた人間のひと時の安らぎへの希求であるのだ。決して、衣食住足りて有り余る上流階級やエリートの救いの場ではないのである。

 だが、大地を知らず弱き精神の下に育った者にとっての救いも必要となるのだ。その者たちにとっての逃げ道がどこかに用意されていなければ、世は乱れるのである。支配階級のエリートは下層の者を支配することで自らの弱性をごまかし、より高き天へと昇ろうとその無意識が虚勢を張るのだが、とどのつまりは挫折か不如意の結果を迎えねばならぬことになる。(

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 幽玄は黄泉の国への誘い)