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2020.07.17

幽玄は黄泉の国への誘い

 黄泉というと如何にもおどろおどろしい世界と感じてしまうのだが、幽玄に惹かれる心の奥には、出来るものならば塵世を離れて、天女が住む世界へと、仏国土へと転生したいという想いがあるのである。かぐや姫が竹の中に転生し、最後にはお迎えが来て天(月)に還る様に、人もまた神仏の許へ帰らんとする意識こそが幽玄観なのである。インテリを自認する人々が、然びの感性で幽玄を求めようとしても、そこに見出すのはせいぜい能レベルのものであって、それ以上になることはない。彼らには、地面に這いつくばった原体験が不足しているからである。何より土の匂いそのものが体に浸み込んでいる者でなくては、天へと昇るほどの幽玄には巡り会うことはないのだ。

 幽玄は美ではあるが、単なる美ではない。そこには、「侘び」同様に「生命」を賭した覚悟が求められているのである。その体験を幼い時より経て来た者でない限り、この「幽玄」も「侘び」も現前せし美として昇華するだけのものには成り得ないのである。

 幽玄には、実は常に死の匂いが漂ってもいるのだ。当然と言えば当然である。それは黄泉との表裏一体の美意識だからである。しかしそれは出世の道を閉ざされ絶望の果てに死を選ぶといった逃げの死ではない。その様な哀れは、正に哀れなのであってそこには何らの哲学も美も有されてはいない。にも拘わらず、これまでの作家たちはその様な者たちの死を美として表現し、誤った認識を後世に遺してきた。だが、それは美ではない。例えば、太宰治の死にも何らの美は有されず、世を舐めたただの逃げでしかないのだ。それは、彼が単なる「私の生」を情婦と共に「私の死」として終わらせたに過ぎない。敢えて言うならば、然びが彼を支配していたということは出来るかもしれないが、そこには侘びも幽玄も有されてはいないのである。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 幽玄は黄泉の国への誘い)