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2020.07.16

幽玄と心の大きさ

 筆者の幽玄観にはもう一つ重要な映像がある。それは正に陽中の陽たる幽玄観である。それは堂々の昼間、数キロメートルの幅を持つ海や草原や砂漠など平坦な地を隔てた所の向こうに、幾重にも重なった小高い山々が深い連なりを見せ、尚且つ、その連なりが前列から最後列に至る濃い緑から青へ、そしてだんだんと色が変じコバルトブルーから紫を生じてさらに白へと変じ空と一体化していく景色である。正統的幽玄とはまさにこの景色に他ならない。

 この光景は写真にもよく撮られているし、多くの人が目撃しているものと思う。しかし、同じものを見ても、それが魂にまで響く者と、心にだけ響く者と、単に綺麗と思うだけの者と、何の感情も生まれない者との精神の差は甚だしい。この一点の差によって芸術も真理も万民のものとなり得ることは很だ難しいのである。常日頃からその己の魂を磨いてこなかった者、即ち一刻一刻を生き死にの覚悟をもって生きてこなかった者たちには、到底理解仕難い精神の美たる哲学が有されることはないのである。哀れなことは、そういう者に限って出世し、世のリーダーとなって誤った舵取りをしてしまうことである。

 深山幽谷という言葉があるが、この連なりし山々の奥にこそそれは座して然るべきである。陰性の幽玄は狭い空間内でも良いが、陽性の幽玄は広い空間を以て見出されなくてはならない。それがさっと歩き尽くせる様な距離感では、一見陽性に見えてもそれは陰中の陽が輝いているだけの幽玄であるのだ。幽玄とは心の叫びでもある。その心が小さき人は陰性の美に惹かれ、心広い人は陽性の美に惹かれるのである。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 陽中の陽たる幽玄)