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2020.07.11

生きる「儚(はかなさ)さ」を抱く陰性の幽玄

 一極は陰陽二極に分岐した形で物理も心理も支配し作用していることを知る必要がある。その力によって陰陽の幽玄も出現する。それは、自然科学的には否定され、芸術や文化の世界に於いてのみ評価されるものとして語り継がれてきた。

 もっとも容易な例を挙げると次の様な差異がそこにはある。

Ⓐ人里離れた森の中に祠が在る。その祠は朽ち果て黴や苔が生え、蜘蛛の巣が張り、足元は泥濘んでいる。空気は淀み、見るに汚らしい。この祠には幽玄は表出しない。

Ⓑ人里離れた森の中に祠が在る。その祠は苔が付き朽ち果てながらもその威厳を留め、その足元は乾燥し昼間には木洩れ陽に輝いている。この祠には幽玄が表出している。但し、その周囲の森が無秩序的な気を放っている場合には注意を払う必要がある。

 幽玄とは単に妖しげな雰囲気を指すものではない。如何にも幽霊が出そうだから幽玄の世界だと思っている無知な人がたまにいるのだが、その様な空間を幽玄とは言わぬのである。幽玄を表出する限りに於いて、それは陰性であってもどこかに乾燥した気が漂うのだ。ある種の安心感と言ってもいいかもしれない。それらの要素が見出されない限りに於いて、その祠や暗闇や薄気味悪さはただの陰気な場でしかなく、そこに惹き付けられる気は見い出せないのである。

 陰性の幽玄は、初めてそこに踏み入った時には薄気味悪く感じたとしても、同時に必ず何らかの心惹かれる気を感じるのである。その最初の先入観が薄らぐと同時に、その目の前に陰性の幽玄が出現することになる。それは陽性の幽玄と違い、見た目の美しさはないが、不思議と心の安らぎを伴っているものだ。陽の安らぎが開放的で他者同一的であるのに対して、陰の安らぎは極めて個人的なものとして心に浸み込んでくる。しかし、個人的と感じられるその安らぎも、実は集合無意識としての元型の役割を果たしているに過ぎないのである。

 こうして人は、陰性としての幽玄に心惹かれ、時に陽性よりも安心を得るものとして、そこを志向する様にもなるのである。それは常に、人生という葛藤の場から生じる「時」という場でもあるのだ。陰性の幽玄には「侘び」と共通する、人生への哀歌が有されている。それは無常観であり、そこからの逃避の場であり、時でもあるのだ。「生きる」という「逞しさ」を第一義とする人間ではなく「生きる」という「儚さ」を第一義とする人の止まり木でもあるのだ。しかしそれは陽性の幽玄を手に入れることで、その上の意識へと昇華され、その弱さは強さへと変じるのである。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 陰性の幽玄)