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2020.07.10

民族が継承してきた深い闇の表出

 陰湿な場が神秘性を有する為には、そこに一瞬の乾燥した空間が必要となる。それは、そこに立ち入る人間の心の内に生ずるものでもある。言うならば、それは精神のゆらぎでありそこから生じた美であり、自己のアイデンティティに触れる某かの記憶の産物でもある。つまり、陰性と言っても、そこに幽玄観が見出される為には、只怖いや薄気味悪いでは不可能なのである。仮令陰性であっても幽玄である限り、それは恐怖の対象であることはないのだ。茲の所は明確に分析しておく必要がある。そうでなければ幽玄は美とはなり得ない。

 誰しもが感動する陽性の神秘性とは異なるとはいえ、幽玄は陰性であってもそこに神秘を表象しているのである。だからそれは何らかの心理的惹き付けの対象であって、美を表現するものであり、決して恐怖感を伴わせるものではない。だから、もし、あなたが「怖い」や「薄気味悪い」と感じたならば、その場は幽玄とは言わないのである。

 陰性の幽玄は常に人間の心に棲みついている心理でもある。それは自己の内のマイナスの意識が作用しているものでもある。しかし、そのマイナス因子は決してただの自己否定的なものではない。人が人として完成する為のより深い人格を作り上げさせる素材であるのだ。実にそれは人類なり民族が継承してきた深い闇の一部なのかもしれない。ただそこには謙虚な意識が介在する。傲慢な心理には幽玄の表出は生じない。つまり傲慢性は、人類が人格に内在する神性に対する民族の遺伝的畏敬性を抑圧し打ち負かそうと仕続けるからである。

 近代合理主義が自らの理性の下にそれら劣性と見なされる陰性の表出を抑圧させてきたのだ。しかしいずれそれは破綻する。何故なら、心理も知性も陰陽の相関性に於いてのみ正しく作用仕得るからであるのだ。それを無視して、陽の部分だけを追求しようとする者たちの傲慢は、その個としての人生途上に於いて、いずれ綻びを生じさせるのである。それは、この宇宙そのものが陰陽的相補性によって保たれているからに他ならない。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 陰性の幽玄)