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2020.07.12

陰中に出現する陽性の幽玄

 筆者は、既述している様に、生家に於いて毎日の生活の中で陰陽それぞれの幽玄を目撃し、自分の心の中に刻印されてきた事である。だが、その現場に立ち会えば誰しもに幽玄が表出するかといったら微妙である。陽の強い幽玄には大半の人が心惹かれる共通項が有るが、陽性を帯びた陰性の幽玄には、必ずしも万民が美を見出すかどうかは難しい。その意味に於いて、わが生家の厨房の窓からの陽射しは、見解の別れる所となるだろう。鈍感な人には只の洩れた陽射しでしかないからだ。

 その意味では同様の体験を語りたい。それは筆者の人生に於いて極めつけの幽玄の世界であった。

 それは、新居に引っ越す前の仮住まいの時に、佐賀の叔父の家に一、二カ月預けられた時のことだ。そこは田舎なりにわが里より遙かに都会であり、何と言っても国道が目の前を走っていたのである。車はひっきりなしに往来していた。その前にはクリーク(池)があり布袋葵や菱や蓮が生い茂っていた。その水辺に風呂場が在ったのであるが、夜に風呂に入るとクリーク上の靄を通してうす暗い闇の中を往き来する車のライトの淡い光が何とも神秘的で、幼い筆者は一瞬にして虜になり、見入ったものであった。それはその後の長ずるまでの間、しばしば目に浮かんで再びと同様の感動をしたいものだと思ったものだった。

 後年、吉野ケ里遺跡のすぐそばのその叔父の家を訪ねた際、叔母が突然五十年以上前のこの時のことを話し出し、「あんた一所懸命車を見とったねぇ。よっぽど気に入ったっちゃね」と言われて、その記憶がまぎれもない自分の歴史の一コマであったことを再認識させられたものだった。その光景は正に幽玄以外の何ものでもなかった。

 靄がかかった空間を通して、百メートル程離れたその国道から突如顕われてスーッと消えていく淡く不思議なその葆光の粒子の輝きと吸い込まれる様な異次元感、その余りの神秘さに幼い筆者は心を奪われ、時間の経つのも忘れて微動だにしないで見入ったものだった。

 それは、とてもとても神秘的で、正に幻想の世界そのものであった。正に幽玄そのものであった。そこには陰性が意味するマイナス要因は何一つ有されてはいなかった。だがしかし、陽性の幽玄と言うには、余りに暗い時であった。外に見えるのは闇の中の霞と淡い光だけだったのだから。しかし、これを陰性の幽玄と言うべきではない。確かに夜ではあったが、これは陽が強く出た陰性であったからだ。陰性の幽玄には光が強く作用してはならないからだ。心情的には陽性そのものであった。何よりその美しさに心は惹かれ溺れ死ぬほどであった。それは、もう死んでもいい程の感動であった。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 陰中に出現する陽性の幽玄)