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2020.07.09

陰性としての幽玄

 そこで、陰陽としての幽玄の具体的な姿を茲に紹介する。それは、誰しもが知るありふれた情景でもある。では、同じ視覚の対象が何故に人により異なって見えるのかと言えば、それは夫々の感性の違いという以外にない。特に陰性については、合理主義的には迷信を信ずる者か否かの差ということにもなる。芸術論的には感性の豊かさと貧弱さの差ということになり、脳生理学や心理学的には錯覚や不安の産物ということになる。民族学的には蓄積された民族の記憶ということになる。

 『遠野物語』に代表される土地の記憶に人々が惹かれるのは、正に、遺伝子に組み込まれた意識だからである。科学が迷信と言えば言う程に、謙虚なる知は立ち止まり、その深層を解き明かそうとしてきたのである。陰性としての幽玄は、常に暗く不安な心理を人々に与えてきた。それはその背景に黄泉が見え隠れしているからである。であるから、ものの見事に、その様な世界を全く受け付けない唯物論者たちには、その情景に何らの神秘性を見出すことはなく、彼らからは陰性の幽玄は完全に否定されてきたのである。正しくは、彼らには理解出来ない高度な美意識だったのである。

 陰性に代表されるものに闇がある。湿気もそうかもしれない。要はそこに広がる空間そのものを指す概念である。その意味では世阿弥の語る幽玄は狭義の世界だ。外の世界に於けるその場は、神社仏閣、村の片隅、墓場、廃墟、沼、洞窟、薄暗い所、荒れた場所、森などがある。神社仏閣と村の片隅と森だけは同時に陽性をも持つのであるが、それ以外の場所の多くは全て陰性の作用のみで忌み嫌われる対象でもある。要するに唯物論者でない人たちにとって、そこは黄泉へと引きずり込まれるエネルギーを感ずる場であり、怖いもの見たさ的な心理が介在して、そこに神秘性が見出された時に陰性の幽玄が出現するのである。

 もしそこに神秘性が出現しなかったならば、そこはただの陰湿な場でしかない。最近流行のパワースポット的空間は幽玄になり得る条件をある程度の所まで持ち合わせているのかも知れないが、決定打にまで到っていない。それは、そこに関わる人物たちに知性又は極度の感性の豊かさが欠けているからである。単なる無教養で美に鈍感な子ども騙し的心理からは幽玄は生まれない。幽玄は常にそこに介在する人間の哲学的な感性を要求するのである。二六時中に於いて心を研ぎ澄ませている人でなければ、陽性と違いこの陰性の幽玄を垣間見ることは難しい。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 陰性の幽玄)