BLOG

2020.07.08

幽玄に見る陰と陽の相補関係

 筆者にとっての幽玄は、生まれながらに到る所に在った。それは住んでいる茅葺きの家そのものが正にそうだったからである。街灯などという気の利いたものがない時代、村自体が幽玄や侘び世界の一部でしかなかった。いまでも各地のど田舎へ行けばそんなところは到る所にあるものだ。夜になれば村全体が真っ暗になった。星は都会の何倍も輝いて見えた。家の土間にもそのうえの屋根裏部屋にも藁が積み上げられていた。その屋根裏はいつも薄暗く、梯子で一人上っていくことには抵抗があった。祖父母の部屋も薄暗い中に古めかしい箪笥が並んでいて、一度も可愛がってくれなかった怖い祖母が居て足を一歩も入れることが出来なかった。一方、大好きだった祖父とは火鉢でおにぎりを焼き、如何にも平和裡な空間の中にいた瞬間も幽玄の一時であり、また侘びの世界でもあった。

 更に、厨房の窓からの木洩れ陽ならぬ格子洩れ陽、小春日和には一層の輝きを増して陽性としての幽玄を見せてくれたものである。古めかしいこの家はどこにいても黄泉の世界へと繋がっていた。何もかもが、不思議の国のアリスではないが、異次元へと導いてくれる趣があった。古き生活を送っていた人々には全員に、この感覚が多少の違いはあるにせよ有されていたことは否定仕様のない事実だと思う。幽玄は常に心の不確かさがそこに見てとれるのである。ただ元気いっぱいで鈍感な人では、もしかすると把握出来ないのかも知れないが、凡そ、昔の人ならば大方がこの感覚は共有していたであろうと思う。

 ところが明治以降に西洋合理主義が導入され、迷信の類を徹底的に排除していく中で、幽玄の陰の部分が否定されていき、後には陽の部分である美としての幽玄のみが強調されていったのである。その幽玄は「侘び然び」との共通項も持つところから、「わび・さび・幽玄」と一括りで言われる様になっていくのだが、幽玄は他二者に比べると圧倒的に異次元である。

 それは、何度も言う様だが、常に黄泉との表裏一体の姿でしかそれは認識されないものであったからだ。黄泉とは幽玄に於ける陰の部分である。陰は常に人の心に影を作り出して存在する。それは表の陽を支える相補的関係でもあるのだ。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 家が果たした役割)