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2020.07.07

黄泉の世界を垣間見せる「幽玄」

 「幽玄」というと日本の解説書では第一に能が出てきて世阿弥の思想などが紹介されるのであるが、果たして能の幽玄は真に幽玄なのだろうか。あの独特の節回しは文句なく合格と言えるだろう。能楽も正にピッタリである。しかしそれでも『風姿花伝』や『花鏡』に幽玄という文字はあっても、真なる幽玄が有るとは筆者には思えない。不充分だと敢えて申し述べたい。否、そもそも世阿弥は幽玄など語っていないのかも知れない。能の幽玄は拙著が説く大地の幽玄や中国に源を置く幽玄とは根本的に違うのかも知れない。単なる芸能の産物なのかも知れない。もしそうだとしたならば、拙著は古来より伝わり、また大地に根付いた所の幽玄について述べることになる。

 ただ一つだけ言えるのは、世界の知識人が魅了される能という芸能は世界的に稀な形態を持つものであり、西洋人にとってはとてもエキゾチックな魅力に満ちているということである。この一点を以てしても日本独特であり、他の追随を許さないと映るのであるが、この点については大いに注意を要するのである。何故なら幽玄なる世界は西洋にも古くから存在するからである。ただ、日本ほど洗練されていないに過ぎない。

 「幽玄」は黄泉を背景とした思いに基づくものであって、それは必ずしも美意識ではない。飽くまでそれは、その状態を指す言葉なのであって、思想や哲学や心情とは全く関係ない代物であるのだ。その限りに於いて、幽玄は常に神秘的である。だが、この幽玄を語る者がもし無神論者ならば、凡そ滑稽としか言い様がない。無神論者には幽玄のゆの字も分かり得ようがないからである。何故なら「幽玄」は常に現世と来世との境を示す次元であるからだ。もし風景としての幽玄にその無神論者が感動していても、それは幽玄に対するものではなく、単なる造形や色彩に対してであることを峻別しておかなくてはならない。

(『侘び然び幽玄のこころ』第二章 幽玄 陰性の幽玄)