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2020.07.06

伝統的思考にこそものの本質がある

 私には時間は有って無いものと映る。有るとは過去から未来へと向かう矢の存在であり、無いとは過去を見出すことはなく未来は未だ生ぜざるところのその間に位置する〈いま〉は存在し得ないというものである。しかし、われわれの実感として確かに〈いま〉は有ると感じられる。しかしその〈いま〉と感じるのは、脳の処理時間の関係で、実は常に現実よりもほんの少し過去のことであり、その意味ではわれわれはわずかながらも過去に生きている、ということになってしまう。しかし、それは脳・意識の能力の問題で客観的物体としての私は〈いま〉存在している。物理学的にはそれこそが〈いま〉であるのだ。

 ここでわれわれが思惟しなくてはならないのは、絶対空間や絶対時間というものの不確かさである。そのことは取りも直さず、自分自身の存在の不確かさを意味するということである。そしてわれわれが日常に生きている〈現実〉という世界も実は不確かなのだということだ。その不確かさは、人智を越えた不確かさと、この眼前の世界を肯定した上での不確かさがある。前者については人には如何ともしがたいことだが、後者ならば、サルトルよろしくわれわれは、目の前の世界に自己の自由な意志を〈投企〉し、自己実現への道を歩むことができるということでもある。既存の価値観に振り回されず、他者の意思の奴隷にならず、己の確固たる意思を世間に表明し、自らの自由のもとに力強く生きることが示されるのである。

 さらに意味深なことを言えば、私は何らかの物理法則によって、いまのこの意思は過去の自分に、すなわち未来の自分はいまの自分に影響を与え得るのではないかと、われわれの常識を疑っているところなのである。既存の常識ではそのようなことは有り得ない。だが、〈いま〉という物理的現時点を見出そうとすれば、仏教や量子物理学が説くところの〈刹那生滅〉たる時間がこの世界を支配していることになる。量子の世界では、そちらの方が真実なのである。この事実を無視することはできない。その刹那生滅における時間と空間の存在は、われわれの意識・心というものの断片的存在への可能性を暗示するものである。それらは、どこかの次元軸においてその整合性を与えられるのかも知れないのだ。それ故に、私は、未来の私がいまの私へと影響すると仮説するのである。

 そのような意識世界にもしわれわれが生きているとしたならば、われわれの可能性は限りないことになる。それは何より、未来人類が閉塞感から脱することを可能ならしむるのだ。
同時にそれが意味することは、瞑想座禅における超越となり得るのではないか、ということである。インドに代表される覚りへの志向は、そのような潜在する意識によって感知され求められてきたのであろう。もし絶対空間、絶対時間が存在するならば、そこは存在しない存在、すなわち上次元の概念の中で初めて見出されるのだと思う。西洋の哲学者も仏教ないしインドの哲学者たちも、ここに向かう意識の中で〈いま〉を生きているのだと思う。いずれ、その〈いま〉も消滅することにはなるのだろうが…。

 人生を考えるとき、われわれは目の前のちっぽけなことばかりに意識が行き、人生の本質について何も思考しないままに一生を終える人が大半である。だが、それは余りに淋しい。哀れな一生と言わざるを得ない。こういった形而上学に意識をもっていくことで、イデオロギーなどに支配されている自分の愚かさに気付けるものである。現代哲学は伝統哲学をすべて否定しているけれども、量子物理学の発達によって、むしろ伝統的思考にこそものの本質があることが見出されれば嬉しく思う。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 時間は存在しないのか)