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2020.08.23

渋き「然び」

 現在、一般には「侘び然び」と一つの単語、一つの名詞になってしまっている風がある。そういう意味では、どちらがどうと、今更あまり拘わらなくてもいいのかもしれない。

 敢えて違いを言うとすれば、「侘び」の方がより質素で簡素な意味合いを強く持ち、「然び」は必ずしもそうではない、という点とも言えるだろう。

 「然び」の概念は、平安時代に於いては仏教の無常観を指しているのだが、室町時代以降は、古びて味わいのあること、閑寂な趣を指してくるようだ。特に茶の世界に於いては、それが強調され現代に到っている。

 さらに「然び」には〝渋み〟の意味が加味されることとなる。後世この概念が重要な美意識となって文化人を魅了する様になるのだが、実は、この概念こそが「侘び然び」を低次元へと引き落としたものでもあったのである。

 「侘び然び」の本義が理解されていない文化人の大半が「侘び然び」を正しく理解出来ないが故に、その穴を埋める為に持ち込んできた概念が「渋み」であった。この誤解こそが後に「侘び然び」を世界に広めるきっかけとなったのだから、皮肉なものである。「然び」は青銅が化学変化によって緑青に変わりそこに渋みを演出することを意味している。しかし、一般に渋みと思われているものは、言い換えるならば「カッコイイ」なのである。「然び」の渋みとカッコイイの渋みには大きな隔たりがあることを理解する必要がある。

 一般的な「渋い」と「侘び然び」とは対極にあるものであることが理解出来なければ、ここから先に進むのは難しい。つまり、一般的な渋いは無意識であれカッコつけたものであり、そこには強い意識が作用している。しかし、「然び」の渋さにはそれは全く有されない。極めてそれは自然体であるということだ。その意味では茶道は極めつけ不自然だと思う。しかし、その様式美は認めないわけにはいかない。あれはあれで評価されて良いと思う。少なくとも海外へのデモンストレーションとしては、充分な効果を持つものである。その意味で茶や能の民族にとっての価値は高い。しかし、この辺りから「然び」は表面的な美意識へと成り下がり、本来の価値を見出せずにいるのではないかという気がするのである。

(『侘び然び幽玄のこころ』第五章 「侘び然び」の再定義 渋き「然び」)