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2020.08.22

海外での誤解

 では、凡夫でなくなった人たちが、侘びという言葉を使って後世に侘び観を伝えたのかというと、残念ながらそこまでの人は芭蕉等の数人を措いていないのではないだろうか。

 彼ら先人が、現在に伝えているところの侘び観というのは、文献の中にしか存在せず、現代の茶や歌等の中には見出し難いと筆者は感じている。俳諧も果たしてその様なものがあるのか些か疑問である。特に茶道に於いては、江戸期に家元制が敷かれてからはブルジョアの典型となり真実の侘びは全く理解出来ない状態にあると言わざるを得ないのではないだろうか。

 せめて家元だけは十年間位の出家坐禅の修行を経た者でなければ就けないとしたらいいのである。そうでなければ「侘び茶」の点前など不可能である。命を捨てるだけの覚悟なくして侘び茶などとは片腹痛いのである。いまも昔も庶民から見れば茶人など道楽人としか映らない。この事実を真正面から確と受け止めるだけの家元が出現しなければ、真の侘び茶は生まれない。いまの茶は普通に用いる心が派手な正に侘びしい茶に成り下がっているのではあるまいか。

 西洋人たちやその他の外国人たちには凡そ理解出来ない侘び然びの精神が、我々の中には伝統的に根付いてきたのだということを、取り敢えずは素直に理解しておくことも大事だ。しかし実のところ、この美意識も海外にそのまま持っていった時には、現実対応力のない弱者の思想と断定されることが屡々であることも知っておく必要がある。この手の日本独特の価値観は、手順を追って説明しないと理解されないので大いに注意が必要である。不幸中の幸いで、東日本大震災での日本人の秩序正しさが世界の驚嘆と喝采を博した。その延長線上で「侘び・然び・幽玄」が外国に理解されることを望むものである。実は、そこに誤解が生じているのは、説明する側の日本人に「侘び観」の正しい理解がされていないことが原因している。

(『侘び然び幽玄のこころ』第五章 「侘び然び」の再定義 海外での誤解)