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2020.08.18

自我という錯覚

 人が自分の自我を自覚しその許容される思考と行動とをともにするときに、どこまでが真に〈自分〉であり、どこからが他者からの意思であるのかという区別はされることがなく、人はただ自分と誤認して常に判断するのである。だがそこには自分の自我を優先すべきかという問題が常に存在する。にもかかわらず、人はその事実に立ち戻ることをすることなく、否、大半の人間はそのことに気付くことなく、いまここに〈認識している意識〉を〈自分〉あるいは〈自我〉と錯覚して、この瞬間に選択と決断を繰り返すのである。

 だがそれは自我の錯覚にすぎず、われわれは常に〈自身〉の消失に晒されているのである。人は何のためらいもなく〈自分〉を認識する。それは常に〈自分〉に他ならないと信じている。しかしそうだろうか。その〈自分〉は実存たり得るのだろうかということを常にわれわれは自己に問い続けなければならない。なぜならそこには自分の自我を支配するところの諸々の情報の氾濫があり、気付かぬうちにその情報ないしは強い主張、その他者の心(気)に影響を受け、自我の心理は潜在してしまうからである。その事実を無視して、事の本質を語ることは出来ないということである。

(『人生は残酷である』第二章 思考は正しいか 自我の錯覚)