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2020.08.19

一貫してこその論理

 論理は常に一貫しなくてはならない。自分に不利であっても理が優先されなくてはならない。

 紀元前399年、古代ギリシャのアテナイにおいて、最も偉大な哲学者ソクラテスは、政治家たちの策謀に遭い捕えられ「青年を堕落させた罪」で死刑宣告を受け従容(しょうよう)として毒杯を口にした。牢獄から逃げだせるようになっていたにもかかわらず、「脱獄の不正」を嫌い、何より自分が主張してきた正義と真理の正しさを主張するために、若きプラトンたちの前で命を絶ったのである。その瞬間、「人間は万物の尺度である」と言ったプロタゴラスの相対主義を、ソクラテスの絶対主義・絶対真理が打ち倒し、燦然と輝きを放ったのである。まさにこの時こそが、ただの屁理屈の学問だった哲学が絶対的学問へと進化した歴史的瞬間であった。

 このソクラテスの一貫した姿勢こそが、いま憲法学者や教師たちに突きつけられているのだ。論理的に矛盾があってはならない。イデオロギーに支配されてはならない。ただ、真理だけを追究する者でなくてはならない。その真理追究者は、悪魔であってはならない。優しい情を持った者でなくてはならない。その上で一貫した理を説かなくてはならないのだ。ソフィストたちのように相手の揚げ足を取ることだけを考えているような人物になるべきではない。いまの政治家はそればかりだ。

 自分の主義主張を離れて、何より自分の損得を離れて、ただ理をもって事象の悉くを判釈していかねばならないのである。過激に走ってもいけない。もっと緩やかで子どもたちの心を癒し支え喜びを与えられるものへと、教育は進化する必要がある。そのためにも教師は何よりまず最初に「愛情豊かであれ」と申し述べたい。すべては、一個人としての教師の自覚にかかっているのだ。

(『人生は残酷である』第三章 実存主義の終焉 一貫した論理に生きよ)