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2020.07.04

時間は存在しないのか

 時間を考えるとき、必ず言われるのが、心理的時間つまり何かに集中していると過ぎるのが早く、イヤな時は遅く過ぎる、子どものときは1年が長く、おとなになるとアッという間に1年が過ぎるというものである。ここではその心理については語らない。純粋に本質的または物理的時間について述べたい。時間は古くはギリシャやインドにおいて記述されており、プラトンの対話『国家』でも輪廻転生を前提とした議論がなされている。古代ギリシャにおいては黄金時代→白銀時代→青銅時代→英雄時代→鉄時代の5時代を1宇宙期としてそれが永遠に繰り返される円環的時間論が語られている。そこでは永遠という単位で人間が同じことを繰り返す愚が述べられるのである。これを循環史観と呼ぶ。ほとんど同様の内容が古代インドでもウパニシャッドやブラーフマナの文献に語られている。

 これと対立してくるのがキリスト教の時間観念である。神による創造をスタートに最期の審判という人類の終末へと向かう直線的時間論が語られるようになり現代に到っている。哲学も現代も時間は過去から未来に放たれた矢だと認識している。円環も直線時間もどちらであれ、その区切り目は大きな災いが人類を襲うことになっている。広義にはその時期は現在ということらしい。
『存在と時間』を著わしたハイデガーも、本物の時間と空間について語ることはまったくできていなかった。彼が語っているのは単に人のあり方、人の存在理由を述べただけのことで、それ以上のものではなかった。「人間であることの本質は、未来志向である。われわれは過去の積み重ねの存在であり、過去についてくよくよするのではなく、人間の本質は前を向くことだ」といった自己啓発的内容でしかない。それほどに時間と空間を語ることは難しい。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 時間は存在しないのか)