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2020.06.06

われわれは「自分の人生」を生きているか

 いつの間にか親の子としてこの世に存在し、学校に通うようになると日々勉強や教師や級友との葛藤に悩まされるようになり、自我の未確立故に不安を抱き続けることになる。そして、いつの間にか自分は他者によって規定される者となりはてていく。本来あるべきあるがままの自分は見失われ、いつも自身が感じる自分は素顔の自分ではなく〈対他存在〉としての他人によって規定された自分しか存在しなくなっているのである。しかし、果たしてそれは自分と呼べる存在なのかが問われてくる。

 われわれは改めて、ここに自己とは何か、〈私〉とは何かを問う必要性を感じるのである。それは面倒な作業を伴うが、しかし、その作業を経ずして自己と出会うことは不可能である。もし、自己の存在に何かしらの意味づけを求めるならば、考えなければならない。それは人として歩む第一歩であるからだ。果たしてわれわれは〈自分の生〉を生きているのだろうか…。

 それとも他者の生の中に組み込まれているだけの存在にすぎないのだろうか。確かにわれわれは日々生きている。しかし、それは単に生物としてこの肉体を維持するためだけに食べて寝てを繰り返すだけの生き物になり下がってはいないか、自身に問う必要がある。「俺は会社で猛烈社員としてそれなりの尊敬を得られており、これだけの業績を積み上げてきた」と豪語する人物も、果たしてその生き様が真に自己の本質に従った生き方だったのかと問われると、即座に「そうだ!」と答えるだけの確信があるだろうか。たぶん何人かはそうだと言うだろう。しかしそれは、単に自己へのこだわる姿であり、あるいは無思考でしかない。改めて過去を振り返るならば、その生き様とは単に会社の一部として働いていただけの歯車にしかすぎなかったのではないか、という疑いが生じるのである。

(『人生は残酷である』序章 自分の人生とは)