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2020.06.07

精神的「その日暮らし」からの脱却

 会社で評価されたことが人生の喜びとなり、会社で否定されたことが辛さや悲しみとなり、会社での人間関係が人生の人との関係となる。人生観は自己中心か周囲と協調するものであり、成功(幸福)者になることを目指して生きてきたのである。夫婦の戦いは解消されることはなく、子どもとの葛藤は見ぬ振りをし、親族や知人たちとの関係もただ流されるままでしかない。その日暮らしとは昔貧しかった人たちの生活苦を指すことばだが、経済的に恵まれた現代社会においても、人びとは精神のその日暮らしの中でしか生きていないのが実態である。毎日が同じことの繰り返しであり、ただ生活するためだけの人生を歩いているのだ。なぜ自分がこの世に存在するのかなどという哲学的思考などまったく意味を持たない生き様である。それこそが現実の〈生〉の実態であるのだ。だが、人類も、そろそろこの思考と行動のパターンから抜け出す潮時に来ているのかも知れない。

 果たして、自分の人生は本当に自分の人生であるのか―。社会の流行や価値に無意識に盲従し、テレビや新聞や雑誌やネットの情報をそのまま信じ込み、洗脳されていく日々の人は余りに多い。マスメディアが右と言えば右を向き、左と言えば左を向く。そのような心に魂は有されるのか、個としての存在者たり得るのか、あなたは考えたことがあるだろうか。かと思えば、何もかもにすべて反発否定する精神の屈折した未熟者もまた多い。素直であると同時に、常に万事に対して思惟する自我を持ち得た人間だけが〈生きている〉といえるのである。果たしてわれわれは生きているのか。果たして存在しているといえるのか。そもそも、われわれはリチャード・ドーキンスが言う如き遺伝子の運び屋にすぎないロボットなのか―。

(『人生は残酷である』序章 自分の人生とは)