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2020.06.05

自分らしさ

 何もかもを忘れて自分らしく生きてみたいと多くの人が思う。でも、いざ自分らしく生きようとすると、何が自分らしいのかが分からないことに気付くのである。単に趣味に生きたいという人は、それで幸せかも知れない。しかし、心の淵を埋めたいと感じる者にとって、自分の存在そのものについての葛藤が克服されなければ、前へ進めないのである。

アドラーは、他人から承認される必要はない、人は他者の期待を満たすために生きているのではない、と説く。

 そんなとき、アドラー心理学が声をかけてくる。自分探しなどという下らないことはおやめなさい。それよりも変わるのがこわくて他人から傷付けられるのがこわくて、〈いま〉に安住しているその「変わらない決心」を捨てなさい。そして「嫌われる勇気」をもって、あなたの人生の目的に目を向けなさい!と。勇気さえ持てば、どんなことだってできる。人生は振り返るものではなく社会貢献の目的に向かって突き進むものだ、とアドラーは語る。

 だが、その程度の勇気など楽々と持っている者たちはいくらでもいる。しかし、そういう彼らも多くの苦難を経て、成功していくのである。ましてやそこまでの勇気を持たない人の嫌われる勇気とは、人生を少しだけ明るくしてくれる程度にすぎない。やはり、人には、もっと根本的な問題が横たわり、さらなる進化を人は求めているのだ。

 一方また、人間中心主義のサルトルの実存主義も、「自分が何者か」などという下らないことを考える必要はない。一切は自由だ、神は存在しない、すべては自分が決定し自分の思うがままの人生を生きれば良いのだ!と叫んでくる。だが、真にそうだろうか。構造主義に否定された実存主義も生まれながらの社会的規約によって拘束されていることに気付き、まさにそのことが自分の眼前に立ちはだかる。サルトルが言うほど人生はそんな単純なことだとは思えない。

(『人生は残酷である』序章 人生の葛藤)