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2020.06.04

人生の葛藤

 人生とは何を意味するのであろう。人間とは、果たして何者であろうか。誰しもに突きつけられるこの命題を人はみな心の片隅にしまい込み、日々を生きているものだ。自分の意思とは関わりなく、自分は突如としてこの世に生を受けた、と感じている。どうせなら生まれてこなければこれほどに苦しむことはなかったのに、なぜに日々葛藤し、苦悩して生きなければならないのか、と多くの人が不条理に晒されている。

子どもの時から競争原理の中で生かされ、真に自由な子ども時代を過ごした人などいまや探すのが難しい。社会人となり働きだせば、そこにあるのは日々戦場であり、業績アップのための努力が強いられる。社会は非情である。全能力のうちの一部の能力の差によって人間を峻別し生涯収入は何倍もの格差を見せつける。それは単に収入の面だけでなく、精神的な面においての差も大きい。ただし、こちらは必ずしもエリートと呼ばれる方が幸せとは限らない。経済的には劣っていても精神面ではより幸せな人たちは多い。

 誰しもが何の疑いもないままに社会人になっていくのであるが、改めて自分は何のために生きているのかと問いかけたとき、そこには言い知れぬ深い闇が口を開いてその淵を見せてくるのである。まじまじと自分の生についてその本質をのぞき見ようとした途端に、多くの人は煩悩の波に呑み込まれてしまう。だから、誰もその淵についてのぞこうとはしない。だが、「それでよいのか」と心の声が聞こえてくる。「お前は何者なんだ!?」と問いかけてくる。
何もかもを忘れて自分らしく生きてみたいと多くの人が思う。でも、いざ自分らしく生きようとすると、何が自分らしいのかが分からないことに気付くのである。単に趣味に生きたいという人は、それで幸せかも知れない。しかし、心の淵を埋めたいと感じる者にとって、自分の存在そのものについての葛藤が克服されなければ、前へ進めないのである。

(『人生は残酷である』序章 人生の葛藤)