BLOG

2020.09.19

『タオと宇宙原理』〈26〉第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説

◆老子の逆説

 物理学も宗教も所詮は無知であることを自覚する必要がある。筆者も知っていること以外は何も知らない。何も知らない事がそのほぼ一〇〇%だ。

 東洋最高の哲人の老子は言う。

 衆人は煕煕(き)として楽しく笑い、ごちそうを食べ春の高台で人生を謳歌している。しかし我(われ)独(ひと)り泊兮(はっけい)として身じろぎもせず笑いもせず孩(がい)なる赤子のようだ。ふわふわとしてどこにも帰る所もない。衆人は皆有り余るほど持っているのに、我は独り遺(うしな)えるが如くなにも持っていない。我は愚人の心なり。まさに我は沌沌兮(とんとんけい)としてにぶいものだ。俗人は輝いているのに我独り昏(くら)い。俗人は察察として活発なのに我独り悶悶(もんもん)としている。衆人は皆取り得が有るのに我独り頑(かたく)なで鄙(いなか)者のようだ。なんの取り得もない。だが我は独り他の人と異なるところがある。それは衆人がかえりみない母なる道(タオ)の乳房(ちぶさ)に養われそれを貴(とうと)いとすることである。

 一見賢そうにしている知識人や大衆に対して老子が皮肉って語っている。そんな知識や欲望や小賢しい知恵に振り回されている俗人より、愚かでもタオ(大自然の慈愛)の存在を知りそれに抱かれている者の方が幸いである、と。

 そんな程度の人間が、学者だからといって傲慢となり人類を一つの価値観に入れ込もうとしている様(さま)は、老子が言う如く実に滑稽であることに気付かなくてはならない。物理学者がどんなに知性が高くても、超未来の知性からすれば幼稚園児並かそれ以下でしかないことを自覚する必要がある。我々が追い求めなければならないのは、事象の表面的分析のみを示した万学の父としてのアリストテレスではなく、事象の本質を第一と考えたプラトン的存在の意味追究である。単なる物理の法則ではない。その奥の意味するところこそが問題なのである。今どきの物理学者や生物学者などの一部にはその事がまったく理解されなくなってきており、大いに憂うものである。せめてもの救いは宇宙論に人間の意志論である「人間原理説」が登場し多くの学者から強い支持を得てきていることだ。その善良なる学者たちは古代ギリシャから伝わる自然哲学の眼差しを有している人たちであることを期待したい。

(『タオと宇宙原理』第一章 意識と科学 古代の叡智と量子仮説 老子の逆説)