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2020.08.09

生命の根源へ立ち還るとき

 人は、生命の根源へと立ち還り、その法則性を原理として人生を把握し、真に生きることの意義を悟り得る社会へと変貌を遂げるべき時代へと、人類は来ているのだと思う。そう転換することにおいて初めて人類は進化という新たな局面を迎えることができるのである。

 人間の知覚は未熟である。知性も未熟である。にもかかわらず、現代哲学者はえらく自信家である。有限のことばだけでいかにして世界を知り得るというのか。その滑稽さを自覚しておく必要がある。ソクラテスではないが無知の知の自覚がいまこそ必要な時代である。 ここに興味深いスピーチを紹介しよう。それはノーベル賞受賞者で量子仮説を提唱して量子力学への道を切り開いたドイツの偉大な物理学者であるマックス・プランクが、1944年、イタリアのフィレンツェで行なったスピーチの一部である。

 最も明晰な科学と物質の研究に全人生を捧げた者として、私は自らの研究結果から、原子について次のことが言えます。物質というものは存在しません。すべての物質は、原子の粒子を振動させ、この極めて小さな原子の太陽系を一つにまとめる力のお陰によってのみ起こり、存在します。この力の裏には意識的で理に適ったマインド(心・精神・意識)が在ると仮定しなければなりません。この心(意識)がすべての物質の母体なのです。

 なかなか興味深い内容である。要するに宇宙を創造した意識が存在すると語っているのだ。

 そういえば、2010年に中央大学と東京大学の研究チームが共同で「マックスウェルの悪魔」のパラドックスを実証実験で解決し話題になった。難しい理屈はここでは省くが、要するに情報をエネルギーに変換するというものである。この情報熱力学の研究がさらに進めば、われわれの意思・心というものが物へと転換し得るということだろうと察するのである。人の精神は決して脳で作られているのではない、とは最新の生理学の知見である。いずれこういうことが、宇宙と直結する理論となれば、哲学も社会原理も思想も人の生き様もパラダイムシフトをすることになる。その時に対応し得る哲学は言語分析哲学ではなく、自然の中に生の本質を見出そうとする自然哲学であるのだと私は信ずる。それは科学的思考と常に対をなすものだからである。その限りにおいて日本人は東洋哲学へとシフトする時に来ているのではないか、と思う。

 われわれは、なに故にこの世に存在するのか、を幾度となく考えなくてはならない。西洋哲学が言うように単に偶然に存在したというには余りに奇蹟的偶然が重ならなければならない。その蓋然性(確実性の度合い)からしても、単なる偶然としてこの生を捉えてしまうなら、何と味気ないのかとも思う。否、それ以上に非科学的と思えるのは私だけだろうか。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 〈自然哲学〉の提唱)