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2020.08.06

問われる自我との対峙

 実存哲学における〈実存〉すなわちexistence とは、人間の素(す)の状態を意味するものである。〈いまここにある存在〉の意であり、何らかの概念が生じる以前の存在を意味する。そしてそれは、われわれが自分や他者を規定するところのオス・メス的な分類分けや肩書や地位や評価などを意味する〈本質〉essence に先立って存在するものを指す。

 ごく当たり前のことを語っているのであるが、われわれ東洋哲学を学んだ者からすると、〈本質〉という表現には極めて違和感があって、本質という本来的概念は、むしろ実存を指すことばであるはずなのだが西洋哲学においては、このような理解であるらしい。東洋哲学においては、常に自我との対峙が問われるのであり、そこには常に、自我に先立つ〈実存〉が前提である。しかもその東洋の実存は、西洋のそれに比してさらに奥深く、単なる自分や他者という社会的評価の産物であり自他からの評価の中での自分を取り除いただけの実存を意味しない。西洋における実存は東洋においては未だ自我の中に包摂(ほうせつ)されるものでしかないのである。その意味において、東洋哲学、なかんづく仏教や老子などの哲学性は遥かに西洋哲学を凌ぐものであることを理解しておく必要がある。

 そこで、西洋の実存哲学は〈本質(肩書・評価)〉の前に人間の素たる〈実存〉が存在すると説く。それは従来のキリスト教的思考からの脱却を意味するのである。それ以前の哲学では、キリスト教は絶対であり神がすべてであった。だが、実存主義者たちはキリスト教の神を否定し、ニーチェに「神は死んだ」と語らせ、神による運命論や因果論を否定して、人間主体の哲学による人間観を打ち立てたのである。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 実存に見る神の否定と孤独)