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2020.06.15

人が生きた証としての歴史

 筆者にとって、歴史の理解はいとも容易い。それ故、時代劇など歴史物をテレビで観ていると呆れるばかりである。つい最近の出来事である戦時下の再現映像にしても、余りに日常の理解がなされていなくて、目を疑うばかりであるというのが日本人の悲惨な現状である。

 筆者は戦後の生まれではあるが、その生活は江戸や室町時代にも匹敵する原体験を経てきているから、手に取る様に千年前の人々の心も理解出来るのである。何故なら人はいつの時代も変わらぬ心情を有し、大地に足を着けて生きてきたからである。大地を知る者は千年昔の人々の息吹きもその内に感じ取れるものであるからだ。それはありありと分かるものだ。何故なら、現代という物差しが一切入り込む余地のない世界で生きた経験が有るからである。

 しかも、そこには現代科学もほとんど関与しない千年前のままの手作業の農作業がそのままに受け継がれてきたからである。現代だというのに鉄ではなく木製の鋤すら使っていた。勿論、機械などない時代、田植えはどんなに広くとも全て人力で村人総出の風物詩だった。ところが、そういう体験をすることなく、中途半端な都会的生活の中で何の危機感もなく、世界も知らぬまま長じて脚本家や作家になるものだから、何とも間抜けな時代劇が出現することになるのだ。
長々と筆者の幼少の体験談を述べているのには重要な意味付けがある。それは本書のテーマである「侘び」と「幽玄」の本物の本質が、いままで語り尽されてきた万葉集や茶道や俳諧になど存在しないということを語るためであるのだ。「然び」については更に驚くべき事実がある。

(『侘び然び幽玄のこころ』第一章 侘び 「侘び」との出会い)