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2020.05.29

生命が「生き延びる」という存在性

 生命が生き延びるというその存在性には机上の論理を圧倒する現実が在る。生きるということの厳しさは筆舌に尽くし難いものがある。私は幼い時から、この種の自然界の弱肉強食の世界を見続けて生きてきた。そこには、生物の現場を通して人の生が重なり、生きるということの何がしかを教え込まれていったものである。すなわちその教えは、嘘を吐くな、正直であれ、真面目に生きろ!と同時に、現実は厳しいということでもあった。時には命を賭けた闘いがある。理想以上に、現実こそが真実として幼い私の心を捉えた。それは残酷なほどの生き様である。そしてそれが一つの価値観として私に定着したことを認めないわけにはいかない。

 百姓が牛馬を使役するとき、放っておくと牛馬はすぐに立ち止まり草を食もうとする。必ずである。そこで百姓が鞭と声とで叱るとまた歩き始めるのであるが、この光景を家の前でいつも見ているうちに、人も同様なのだと思うようになった。動物行動学の創始者であるコンラッド・ローレンツが言う通り、人も動物の行動心理や本能と同種のものを内在させているのだということを、牛馬などの行動を通して私も学ばされたものである。怠け者に対しては叱ってあげることも重要なのだと。もっとも、牛馬が怠けていたかの判断は難しい。単に目の前の餌に心が向いたにすぎないのだから。

 人は一生を通してあらゆるものから知識を得ていくのであるが、その無意識下に存在するのは生まれ育った空間にほかならない。都会か町か村かで、その人物の根幹が決定する。実存主義を打倒した構造主義観でもある。人生観となると、意外なほど単純な構造から築かれていくのである。それは、第一に父母の存在であり、そのことばと行動とが子を支配し子の価値観を決定づけるのである。その後は学校の先生、友人といった人たちの影響を受けると同時に、本やテレビなどを通して新たな価値観を加えていくことになる。だが、それ以降の成人してからは打たれ強さやしたたかさは増すけれども、その根本的人間性とその価値規準が大きく変わることはない。その結果、人格は親の知性や人間性の高さの違いに伴い、子も決定的な違いを見せるようになる。

(『人生は残酷である』序章 人生は残酷である)