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2020.08.04

人生は不条理か

 人生は不条理である、とは実存主義者たちの常套句である。不条理とはその背景に因果律が存在しないことを意味している。ニーチェ、ハイデガー、サルトルといった20世紀の寵児たちは、無神論的実存主義を説き、人びとをそれまでの因果論から〝解放〟した。その結果、それまで神(社会規範)によって与えられていた所与の世界の所与の人生の当たり前の事柄が、因果律として説明できなくなり、その結果として人びとの前に納得がいかない不条理が出現することになった。すなわちそれが体制批判の理由付けとなるのである。現代日本のエリートたちもその例外にもれず、この実存主義者たちからの影響を色濃く受けることとなった。もはや洗脳されたと言った方が正しいだろう。

 その結果、世の中に氾濫したのが〈個人の自由〉である。義務を無視したところの社会に対する無責任であった。人びとは体制を否定することが正義だと教えこまれ、伝統文化といったものまでもが破壊されるようになった。男女のみさかいがなくなり、恥じらいなどということばは死語となった。わが国からヤマトナデシコが消え失せた時代でもある。東武士や九州男児といった意識も嘲笑の対象にこそなれ尊敬されることはなくなったのである。

 かつて、世界中のエリートたちが持ち併せていた「民族の誇り」を日本人だけはすっかり失った時代である。この誇りとはソクラテスのような「命を賭す」といった精神へとつながっていく〈思い〉のことである。団塊の世代はこの〈誇り〉を見失った最初の世代となった。イギリスの歴史学者A・トインビーの名言「12、13才くらいまでにその民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく亡んでいる」の階段をわれわれ日本人は歩み始めたのである。

 かくして日本人は〝乗り越えられない現実〟を勝手につくり上げ、乗り越えないままに、不平不満を内在させた国民へと変容していったのである。よくも悪くも戦前の人たちの方が戦後育ちよりも遥かに器が大きかったことを認めないわけにはいかない。戦後のわれわれは清濁を併せ呑むことが極めてできなくなった。個人の自由、平等、権利、過度な人権の主張、清潔好き、プライバシーなどという意識もその例としてよく知られるところである。現代的には、スマホに支配されふりまわされ、自己を見失っている人たちも〈自由〉ということばを隠れ蓑にして、そこに自分の自由を見出そうとするのであるが、実態はただの不自由へとネット社会に拘束(アンガジェ)されているのが真実であるのだ。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 人生は不条理か)