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2020.08.02

哲学としての「侘び然び幽玄」

 昨日、以下のように書いた。

 禅を始めとして釈迦らの説は言辞を捨て去り自我を捨て去り普遍の実体も思惟も一切を否定して、微塵の言語即ち価値観を侵入させることなく、自己の本能の意識も閉め出し、只、一点に向かう意識のみに物の本質を見出そうとするのである。その一点に向かう意思のみがダーザイン(独Dasein「存在」)であるのだ。だが、「存在」は西洋的思惟の中には一切見出せないのである、と。

  そこにはデカルトやカントが中心に据え置く「われ思う」や「純粋統覚(とうかく)」といった我の存在は否定される。「侘びや幽玄」は、一つの情性の上に成立するのであるが、それは遙かに一般的情性を超越し概念としての理性を包み込んで、静かな情感へと歩み寄らせ、その情感すらも置き去りにしてしまう感性という透明な意識がそこには介在しているのである。  それは「われ思う」を超え「統覚」を超えて存在する。人間の生まれ落ちたるその定めの引力に抗することなく受容するその精神の高みを「侘び」と呼ぶのである。この「侘び」ではない生半可な茶の湯の「侘び」が世界を駆け巡っているとしたら哀れである。それはいずれ柔道がヘーシングに斃された様に客死するに到るであろう。

 また「幽玄」には、黄泉の世界を表裏とした意識が介在し、魂の奥底からの叫びである越えねばならない無明の迷いと儚さと希求とがそこには潜在する。それを理解せずして幽玄など存在仕様がないのである。この点に於いて西洋哲学の認識は東洋に遙か敵わぬ所で、この日本の諦観「侘び」は更に先へと進んでいることを知らねばならない。しかし猶、更なる進化を拙著は促しているのである。

 我々は、日本人の誇りとして「侘び然び幽玄」を哲学として精神の支柱たるべく更なる高みへと飛躍をさせ、西洋哲学の上位意識たる自覚を持つ必要がある。少なくともそれだけの材料は既に有り余る程に在る。

(『侘び然び幽玄のこころ』第四章 ヨーロッパに於ける「侘び然び幽玄」 カント純粋理性批判の所与ア・プリオリの未熟)