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2020.06.25

〈死〉という宿命

 昨日語った〈死〉なる命題についての続きである。

 私の場合は、自他問題よりもこちらの方が重大で、決定的で、すべての私の精神を傷つけるものであった。その意味において私はニーチェに負けないだけのニヒリストでもあった。その眼前に立ちはだかるのは〈死〉問題であった。私の場合〈死〉の意識は祖父によって築かれた。祖父と一緒に住んでいた生後4年半のうちの、たぶん2歳以降における、朝の6時に起床して朝焼けとともに博多湾に漁船(ポンポン船)が往き交うのを見ながら庭先で歯を磨くというお決まりの日常の中で、祖父が毎日のように口にした「爺ちゃんが死んだら…」というフレーズが、私の生死観を決定づけたように思う。3歳時は常に母の死を恐れていたものだ。

 こんなことを言うと、たまに2歳3歳の記憶があるわけがないと言う人がいるのだが、むしろ記憶していない人こそ問題があるのではないかと私は思ってしまう。因みに、私には母乳を飲んでいたときの記憶も残されている。厳密には6歳のときにそのときの映像を想起し、その記憶がおとなにまで引き継がれたものである。

 そんなある日、強風で小雨が叩きつけてくる午後、近所の優しかったお爺さんが棺に入れられ荼毘に付されるために家から運び出されるところに偶然出遇い、衝撃を受けることになる。そのとき、幼い私は大きな家の塀を背にして「あれだ!」と心の中で叫んだのを覚えている。物心ついたときからずっと私の心を支配し続けていた〈死〉との初めての出遇いであった。私は心も体も硬直し、一瞬思考は停止した。昼間だというのに雨雲で外は薄暗く強風で小雨が顔に叩きつけるのも忘れて、私はその光景に喰い入るように見入り微動だにせず固まっていた。塀が背中に冷たく感じられた。お嫁さんだったかが泣いているのが見えた。

 「あれだ!」

 私の中で、幾度となくこのことばが響いていた。ついに目にしたのである。いつも心の隅に存在して私を悲しみに陥れていた〈死〉が、目の前に出現したのである。幼い私は、しかし極めて冷静にその情景を眺め続けた。その棺が荒波に翻弄される漁船に辛うじて乗せられて対岸に運ばれていくまで、雨に打たれながら微動だにしなかった。そして、雨から逃れるように慌てて家に戻ったのであるが、その後のことはまったく記憶に残っていない。

 ただ、そのときの目撃、否、〈死との直接的遭遇〉はその後、ずっと幼い私の心を支配し続けることになる。すなわち、生への疑問と底知れぬ悲しみからの呪縛であった。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 生きるとは何か)