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2020.06.23

〈自分〉と〈他者〉と〈他者の自分〉

 世界には〈自分〉が自分以外にも存在する―

 世界は〈自分〉だけのものではない―

 ではこの自分とは果たして何者なのか―

 〈他者〉も他者となればそれは〈自分〉でしかない―

 それならば〈他者の自分〉はなに故に〈自分の自分〉に優先し得るのか―

 ここにいるこの〈自分〉と世界中に存在する〈それぞれの自分〉は、

 どちらがこの世における主体者たり得るのか―

 自分の〈自分〉が主体者たり得るのなら〈他者の自分〉は主体者であるべきではない―

 だがそれはあり得ない。他者は明らかに存在しているからだ―

 もし自分が主体者たり得るなら自分の〈自分〉は絶対者となるが経験的にも論理的にもあり得ない―

 いったい〈自分〉とは何者なのか―

 自分の〈自分〉は他者の〈自分〉に対立する―

 客観的に判断してその両者は共存する―

 ではなぜ〈自分〉は自分なのか―

 他者の〈自分〉になれないのか―

 たとえ他者の〈自分〉になり得ても、それは単に自分の〈自分〉になったにすぎない―

 いったいどういうことであろうか―

 この事実をどう理解すればいいのか―

 おかしい―

 何もかもがおかしい―

  自分が〈自分〉であることがおかしい―

 理解不能だ―

 なぜ〈自分〉なんだ―

 ここまでを思考した段階で頭がこんがらがり、考えることができなくなったのである。ここに記したことはそのときのそのままの思考であるが、それをこのように文字化することは、10歳の当時にはできなかった。しかし、言語化できずとも、思考はなされていた。これこそが言語思考と意識思考の2種類の形態があることの証左でもある。何であれ、そのときの幼い私は混乱した。

 それは10歳の少年には、到底理解しがたい難問であった。その日を境に私は〈私〉と出遇うことになるのである。ここに定義する〈私〉とは「他者の〈自分〉と自分の〈自分〉とを等価として理解し、なお且つ、その両者を統合せんとする意思を持つ者」を指している。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 自分はなぜ〈私〉なのか)