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2020.06.19

自分はなぜ〈私〉なのか

 それは、私が10歳のときのことであった。

いつものように狭い勉強部屋に入り椅子に座って窓越しに外を見た瞬間の出来事だった。窓の外にはまばゆい陽光とともに、いつもと変わらない田園風景と家並、そしてその先に博多湾が見えた。

 その瞬間、私の脳裏に曾てない衝撃が走った。

 〈自分〉は自分だけではない!

 突如として襲ってきたその思惟はその日を境に〈私〉を決定づけることになった。

 思えば、小4のある日、「アッおとなになった!☆彡」と思った瞬間があった。小3までは、ただ無思考に周囲と本能とに流されているだけの未成熟な人間であったのが、そのとき、私は自分が急に上級生になったことを自覚し、一人その事実に感じ入っていたことを覚えている。たぶん、このおとな感覚の体験後に、この〈私〉との出遇いが生じているものと思われる。このおとなへの変貌は日記に記されていないので、正確なところは不明なのだが、たぶんこの時期のことだったろうと推察される。長じて、大脳生理学を学んだときに、人は10歳で脳の大半が完成することを知り、このときの不思議な体験が腑に落ちたものだった。その残りの未発達部分は、思春期を迎えることで開花されるのだと思われる。

 10歳前の私は、常に〈自分〉であった。周囲の人間はみな〈他者〉であり〈自分〉ではなかった。私は自分自身でしかなく、〈自分〉という自意識の中で、自己中心的に生きていた。〈他者〉とは自分以外の人間を意味した。すべては〈自分〉という環世界(その物を中心とした世界)の出来事であり、その中心は常に自分でしかなかった。〈絶対の自分〉は決して〈相対の私〉たり得ていなかったのである。ましてや〈総体の私〉など想像すらできなかった。

 それまでの私は、そのことに何の違和感も感じることなく、私は〈絶対自分〉であった。その自分は、朝陽とともに目覚め、母親の声を聞き、食事をし、歯を磨き、テレビを見るか、外に行って遊ぶか、学校に行くかを当たり前のこととして繰り返していた。そこには常に〈自分〉が存在し、〈自分〉が思考し、〈自分〉がすべての中心として君臨していた。すなわち〈絶対自分〉の生活だったのである。

 〈自分〉は私自身の中核であり、なんぴとといえども入り込むことのできない存在であった。その〈自分〉は私にとって絶対的存在だった。もちろんあなたにとってもである。しかしそれまでは、そんな絶対的存在が他者に有されているとは思ってもみなかったのである。絶対的存在は〈自分〉以外に有り得なかったのだ。

(『人生は残酷である』第一章 自然哲学への憧憬 自分はなぜ〈私〉なのか)